水戸喜世子:「10・8山﨑博昭プロジェクト・50周年まであと3年」(2014年10月4日)における発起人あいさつ
水戸喜世子です。どうも今日はよくおいで下さいました。
ここに水戸巌がいないのが私は本当に残念ですし、みなさんにも申し訳なく思います。
60年安保があった時は、ちょうど私は大学の学部を卒業して、夫はドクターを終えて、結婚をして関西に行きました。関西に行ったときは、60年安保闘争の真っ最中でした。樺さんが亡くなった時は 私たち二人は関西からデモに参加したのですが、多くの人と一緒に日比谷公園の中で一晩中泣き明かしました。60年安保の挫折感を抱えて、それでも、運動の担い手の中に、新しい時代の予感も感じて過ごした関西の7年間だったように思います。
巌は関西の大学に就職をして、その間、職場の若い人と組合を作ったり、北爆が始まると神戸のアメリカ領事館前に座り込んだり、私は夜の日韓闘争のデモに参加したりと、いろいろな活動がありましたけれど、必ずしも思い通りの闘いが広がったわけではありませんでした。たまたま転勤で東京大学の原子核研究所に助教授として迎えられたのが67年だったんですね。運が良かったのか悪かったのか分かりませんけれども、67年に東大に戻ってきまして、まもなく10・8羽田が起きました。
私の夫は現地に参加しました。反戦青年委員会として原子核研究所の何人かを募って参加したのです。私と小さい子どもたちは夜の間中、テレビのニュース画面を見ながら、本当に無事に帰って来られるのだろうかと、まんじりともしないで朝まで起きて過ごして、夜明けとともに帰ってきた時は、洋服も全部血まみれで、『怪我人をつぎつぎと運んで、こうしてああして』と。でも本人は本当に意気軒昂で晴れ晴れと、60年安保の仇を取ったようなつもりで、『やったぞ』と帰ってきたんですね。山崎君のことは悲しすぎて、子どもの前では黙っていました、
元気な姿を見て私たちはホッとしたんですけれども、それもつかの間で、配られてきた朝刊は暴徒キャンペーン一色。学生が学生を轢き殺した、学生は暴徒になったという、本当にプロレス見出しの、どの新聞もそうでした。夫は一睡もしないまま、自分で声明文を書き、大学時代の先輩にあたる吉川勇一さんに真っ先に電話で読みあげて、「若者の反戦の志を暴徒にさせては、断じてならない」と協力をお願いしていました。一日中電話にかじりついて、羽仁五郎さんとか日高六郎さんとか当時はいらっしゃいましたね。みなさんすぐに応諾してくださって、2、3日後には、素晴らしい声明文となって、各紙に掲載されたのです。学生の反戦の志を自分たちは支持するんだ、学生のやり方には問題があったとしても、政府の戦争加担、過剰警備の暴力性こそが本質的問題なのだ、という支持声明を出してくださって、それがきっかけで、羽田10・8救援会が生まれ、やがて、救援連絡センターにつながっていきました。
私は生まれて初めて警視庁に差入れに通いました。装甲車を運転して学生を轢き殺したというフレームアップで逮捕された学生に、毎日差入れに行きました。彼は起訴もされないで、一切黙秘でがんばり通して、救援運動の勝利を実感しました。その後、救援運動は大変なことになりまして、4・28沖縄、成田、王子闘争と、連日、時には千人規模の逮捕者が出て、私は小さい子どもを家に置きっぱなしにして、事務所の机の上で毎日寝るような日が続いたこともありました。その1年、2年は大変でした。
でも救援運動があって、権力は本当に困ったと思います。逮捕されても誰がどこにいるか、党派別であればすぐ分かるでしょうけれど、各党派みんな救援連絡センターに弁護士選任を入れてくるわけですから、一番困ったのは権力だと思うんですね。
それを今、山中幸男君(救援連絡センター事務局長)が継いでやってくれていて、国家権力の弾圧を受けた人の人権を守るという、一人の人民に対する弾圧は全人民への弾圧として受け止めるという思想は、曲がりなりにも、今に引き継がれている筈だと思います。
それの出発点は10・8でした。
山﨑君のお母さんの悲しみ、当時未熟な私はそれを十分には受け止めることはできなかったんですけれども、今、自分も25歳の息子をふたり亡くして、一層お母さんは身近なものになり、私の中では家族以上の家族という位置を占めています。反原発の集会でたまたま建夫さんと出会い、モニュメントの夢を話しました。それが建夫さんや友人の努力で繋がりが繋がりを呼び、今日を迎えることができました。今更のように、10・8が人々に与えた衝撃の大きさに驚いています。
「私にとっての10・8」「伝えきく10・8」、そんな思いがつながり、モニュメント賛同運動となって 広がって行ってほしいと願います。どうか賛同人になってください!よろしくお願いします。