東京集会で長崎浩さんが講演、若い息吹も

東京集会で長崎浩さんが講演、若い息吹も
――10・8山﨑博昭プロジェクト東京集会「60年代の死者を考えるーレクイエムを超えて」

 

 2021年6月12日、東京・四谷の主婦会館プラザエフ9階スズランで2021年6月東京集会を開催しました。
 コロナの緊急事態宣言が延長され、開催が危ぶまれましたが、90人の参加者があり、盛況でした。
 コロナ禍ということで、会場受付での検温、手の消毒、参加者のマスク着用、椅子は会場定員の半分とするなど、十分な対策を取った上で開催しました。
 発起人の佐々木幹郎さんの司会で集会は始まりました。この日の集会は長崎浩さんからの講演が中心ですが、佐々木氏は、今から50年ほど前の1970年、日本読書新聞で長崎さんと対談したという思い出を紹介しました。その対談は「<われわれ>の崩壊・<わたし>への問い」と題するもので、『70年代を過る・長崎浩対談集』(鹿砦社刊)に収録されています。

●代表の山﨑建夫さんのメッセージ(代読)
 本来ならば最初に山﨑建夫代表が挨拶するところでしたが、体調不良のため集会に参加できなかったため、司会が挨拶を代読しました。
 「弟の事を語り継がねばという私の見果てぬ夢を、映像の世界で代島監督が実現して下さったこと、ありがたいことです。どなたかが代島監督をドン・キホーテと呼ばれていましたが、弟もまたかつてドン・キホーテと呼ばれていました。6月5日、大阪上映会の挨拶で水戸喜世子さんが光と闇について話されていました。光と闇は一人の人間の中にもある。時代は大きな闇だが、無数の小さな光がやがて闇を討つ。ドン・キホーテは一つの光、小さくとも、あちらでもこちらでも光を放っています。山﨑博昭プロジェクトもそういう光の一つでありたいと思います。」

●活動経過報告
 続いて、発起人の辻恵さんから活動経過報告がありました。
 「山﨑博昭プロジェクトは2014年7月に発足して、2017年の50周年に向けて三つの課題を設定しました。一つは墓碑墓石を作ること、二つ目は50周年の記念誌を作ること、三つ目としてベトナムのホーチミン市の戦争証跡博物館に山﨑博昭の遺影と10・8羽田闘争の資料を永久展示する。この三つを実現しようということで活動しました。
 20名弱の高校とか大学のゆかりの者が発起人となって、600名余りの方に賛同人になっていただいて、第一ステージということで2018年の10月まで活動をやり切りました。
 このまま終わらせるのも一つの選択だが、当時の闘いは1972年の沖縄返還を巡る沖縄闘争まで続いたということで、沖縄闘争50周年までやろうということで第二ステージを始めました。来年の5月15日が沖縄返還50周年ですが、それまでの間どうするかという時に代島監督の映画が出来ました。代島監督に2017年のべトナムのホーチミン市の戦争証跡博物館での映像を撮っていただいたのがきっかけになって「きみが死んだあとで」という映画が出来たので、第二ステージの一つの成果というか、大きな反響を呼んでいることはありがたいことだと思っています。
 60年の樺美智子さんから67年10・8の山﨑博昭、そして津本忠雄さんや糟谷孝幸さんや中村克己さんという闘いの中での死を私たちは決して忘れないし、この私たちのプロジェクトは当時の思いを、いろんな闘いの中での死の意味を時代に繋げていくために頑張っていかなければいけないと改めて思っています。
 沖縄問題は簡単に連帯と言えるものではないし、沖縄での戦いにも学び焦点を当てながら、来年に向けて更に活動を掘り下げていきたいと思っています。
 今後も皆さんのご協力を是非ともお願いしたい。」

 

 発起人の山本義隆さんから講師の長崎浩さんについて、東大物理学科の4年先輩にあたることなどの紹介があったあと、「樺美智子と私の60年代」と題する記念講演に移りました。
 長崎さんは60年安保闘争、そのたたかいを担ったブンドについて振り返り、そしてその一員であった樺美智子さんの思い出などを約1時間にわたって語りました。
 講演を受けて2人の方から質問がありました。
●【動画】山本義隆さんの講師紹介、長崎浩さんの講演、質疑応答
※URLをクリックしてください。→https://youtu.be/uf_Bmcj5jyk

 これで前半を終了し、休憩に入る前に参加者の一人から、去る2月1日のミャンマーでの軍事クーデターとたたかうミャンマーの人々を支援する署名の訴えがありました。

 休憩を挟んで後半は、映画「きみが死んだあとで」公開報告、若者からの問題提起と協力団体からの挨拶がありました。
●映画「きみが死んだあとで」公開報告(代島監督)
 「長崎先生のお話は樺さんが亡くなったあとの時代、60年代でしたが、僕の映画は山﨑博昭さんが死んだあと、68年、69年、そして70年代、そのあと、さきほど1987年大学入学の方の質問にもありましたけれど、そのあとの若者の運動がどうなっていったのか。60年代のあとはすでに惰性体だと長崎先生は仰っていましたけれども、その惰性体がどうやって現在までこの国に続いてきたのか、そんな事を問いかける映画として作りました。
 映画の公開にあたって加藤登紀子さんと映画について話しました。加藤さんはこの映画を3回観てくれて。3度ともはまって2回泣いたと言っていました。加藤登紀子さんはどちらかと言うと60年安保世代です。高校3年生の時に60年安保だったそうです。お兄さんたちは皆ブントの活動家で、家はブントの巣窟だったようなことを言っていました。長崎先生は60年安保は一つの革命だったと言っていましたけれども、加藤登紀子さんも、あれは“いっときの夏”だったんだと、そういう“いっときの夏”という体験を国として持つというか、国民として持つということは非常に大事なことなんだ、ということを話しました。その映像を観ていただきたいと思います。(ユーチューブの約9分の映像です。)」

加藤登紀子(歌手)×代島治彦(本作監督)スペシャル対談

 「僕としては「きみが死んだあとで」という映画で、山﨑博昭さんが亡くなったあと、“いっときの夏”、輝いた光となった時代があった、でも来年浅間山荘、連赤の事件から50年を迎えますけれども、なぜ夏が冬に、光が闇に代わってしまったのか、なかなか解けない課題ですけれど、そういうものを観た人に自分で反芻していただいたり、若い人にはこういう時代があったんだというのを感じてもらったりしたいと思っています。
 今大阪では公開は続いていまして、もうすぐ宮崎市で公開で、今週末から札幌で公開が始まったり、山形、福島、仙台は公開が終わっていますが、日本全国ミニシアターが中心ですけれども、これからも公開が続きます。あとは東京での公開がコロナの緊急事態宣言下だったものですからなかなか動員が進まなくて、5週間で打ち切りになりましたけれども、コロナの緊急事態が落ち着きましたら、ユーロスペ-スでアンコール・ロードショーをやろうということになっていますので、是非また応援してください。」

●若者2人からの問題提起
 「現在、東京大学の修士課程に所属しています大学院生の田中駿介と申します。このプロジェクトを最初に知ったのは、4年前文京区・根津で展示会をやっていた時に友人と行って、もともと高校時代に予算の問題とか校則の問題とかに取り組んでいたとか、私の出身が北海道のアイヌの人たちが強制的に住まわされていた地区ということもあり、学生運動の歴史にも関心があったし、自分自身も運動に関わってきていたということから、いろいろな縁があり、こうして関わりを持たせていただいています。
 代島監督の「きみが死んだあとで」を巡って、さまざまな人の意見を聴きたいということで、60年代の学生運動やそのあとのセクトの話とか、そういう問題を必ずしも知らないような10代20代の人たちがこの映画を観てどのように捉えたのかということを話を聴いて、それをこの場で共有してほしいと佐々木さんと10・8の会からありましたので、私から報告させていただきます。
 今回、代島監督が大阪からZOOMで参加していただいて、学生も東北、東京からということで、全国同時中継という形で行いましたので、その一部を流します。
(6月6日開催の「映画を語る会」の録画映像が流れる)
 今回4名でお話をして、そこに監督が3時間もお付き合いいただきました。
 こうした運動の歴史を語り継ぐということと、今抱えている人権の問題だとか貧困の問題だとか、平和を巡る闘いにどう結び付くのかもっと示してほしい、という提起がありました。また、この映画を通じて当時の運動を知ることができてよかった。これからどうやって歴史を継承していけるか、自分の問題として考えていきたい、というお話もありました。
 本当に活発な議論が出来て、さらに単にこの映画を観た感想だけではなくて、このあと自分たちがどうやって運動や大学やそれぞれの現場でこういった話を共有していくかということが提起できて、非常に意義深い会議になったと思います。
 長崎先生からあった樺美智子さんの死、国民運動という問題がありましたが、あの被害の戦争を繰り返さないとされた60年安保から、67年10・8というのは単にそれだけでなくて、自らの加害性であったり、ベトナム戦争に加担しているんだということで学生たちが立ち上がったものだと思います。
 日本人にとってベトナムという地がどういうものだったのか、改めて考えなければいけないと思います。会議に参加した女性は技能実習生の支援活動に関わっています。今の日本の社会、資本主義のシステムが農業であったり工業であったり、ベトナムの安い労働力に頼って彼ら彼女たちを搾取する形で成り立っている、こうした状況というは、ベトナム戦争とは全く違う形かもしれませんが、やはり自らも加害性の当事者であるということは提起できると思います。当時の運動というのが、単に歴史的事実ではなくて、今の運動、今の問題に関わっていくことだということを訴えて共有していきたいと思います。」

 このあと、集会に参加していた「映画を語る会」参加者の船橋秀人さんから発言がありました。
 「2019年に東洋大学で竹中平蔵反対アクションで闘いました。
 代島さんもこの映画の中で仰っていましたが、どうしてもこの時代が闇に覆われていたものとして描かれてしまっていて、光が描かれていないところを問題視していたと思います。それはすごく僕も同じですし、60年代を闘った皆さんを含めて、それが最終的に全共闘運動になる、自己批判と言われる中で結実していくものは、生きた証人として僕に受け継がれていますので、その点皆さんは自信を持っていただきたいですし、ちゃんと語り継いでほしいと思います。
 加害性だったり自己批判だったり、自由を求めた運動だったり、見せかけの権威に対する疑いだったり、そういたものは確実に僕に受け継がれていますし、この映画ですごく印象的だったのが、山﨑さんという具体的な個人が死んだということで、皆さんすごく重く受け止めて考えざるを得なかった。先生がどうだ世間がどうだじゃなくて、何よりも自分自身がそれについて考えざるを得なかった、そこが重要だと思っていて、そういった中で皆さんその後の人生を歩んでこられた。たぶん逃げたこともあったでしようし、前に進もうとしたこともあったでしょうし、そういう事も含めて伝えてください。伝えない事はいい事ではありません。
 今の若い人が運動しているのはどうしても限界があるなと見受けられます、運動していくにあたって、60年代の皆さんが提起した問題というのは今も続いている。そういった時に歴史というのが必要になってくる。私たちはどうやって生まれてきて、どこに向かっていくのか。そういった意味でこの運動というのは意義深いものだと思いますので、是非継承していただきたいし、僕も受け継いで自由を求める一個の人間として生きていきたいと思いますので、是非皆さんよろしくお願いします。(拍手)」

●協力団体からの挨拶
1,「声なき声の会」
 「「声なき声の会」の世話人をしています細田といいます。
 「声なき声の会」は60年安保闘争の中で生まれた市民の会です。中学校の教員だった小林トミさんという方が、安保のデモに参加したいがどこにも入るところないということで、自分でプラカードを作って歩き始める。それが発端になって始まった会です。それが61年続いています。
 僕自身はベ平連の運動に関わって、その関連で新宿にある「模索舎」の創期に関わりながら「声なき声の会」に関わってきた者です。
 樺さんが亡くなって次の年の6月15日、小林トミさんは追悼の集会に大勢の人が来るだろうと思っていたら、実際に行ってみたら本当に少なくて、そのことがすごくショックだった。それで6月15日、樺美智子さんを決して忘れない、その集会をとても大事なものとして「声なき声の会」は取り組んできました。
私自身は1970年の中くらいから「声なき声の会」に関わりますが、小林さんが亡くなったあとも、遺志を継いで献花と集会を開いてきました。去年、60周年で大きな集会を計画しましたが、コロナの影響で中止せざるを得ませんでした。今年も高齢の方がいらっしゃるので残念ながら中止しました、ただ献花は続けています。今年も6月15日の午後7時から献花を呼び掛けています。
 今日、このようなコロナ禍の中で集会を開いていただいた10・8山﨑博昭プロジェクトの方々に敬意を表しまして「声なき声の会」からのご挨拶としたいと思います。」

2.「糟谷孝幸プロジェクト」
 「糟谷プロジェクトの世話人の白川真澄と申します。
 糟谷孝幸が1969年、大阪の地で殺されて、ちょうど半世紀を経て、彼の思いを語り継ぐ本を出したいということで、皆さんの協力を得て、昨年11月に「語り継ぐ1969」という本の出版にこぎつけました。
 本の出版や糟谷プロジェクトの立ち上げについては、山﨑プロジェクトの方々、特に山﨑さんのお兄さんに大変お世話になったり、貴重な助言をいただき大変感謝申し上げます。
 この本の出版記念ということで、シンポジウムを今年の1月に企画しましたが、コロナの影響で中止せざるを得ませんでした。今年の11月までには、もう一度オンラインを含めてシンポジウムを企画したいと思いますので、皆様の参加をお願いしたいと思います。
 シンポジウムで議論したいことはいろいろありますが、本の編集をしてみて、60年代の運動、67年から70年に至る運動をきちんと総括して語り継ぐ上で、残されている論点がいろいろあるということに気づかされました。その一つが暴力の問題ということだと思います。
 現在、世界における人々の闘いは、ミャンマーの闘いもそうですけれど、基本的には非暴力直接行動で展開されているわけですが、この67年70年の闘いというものを考えてみると、基本的は大衆的実力闘争という形を取ったと思います。路上に座り込んだり、石を投げたり、あるいは角材を用意するとか、火炎瓶を投げるとか、鉄パイプまで行くということであったわけで、これは紛れもない暴力であったわけですが、私はこれは非暴力直接行動の延長線上にあった、つまり自分の身体を使って権力に抵抗するという闘いというものが本質にあったと思います。つまりそこには民衆の暴力というものが、ある種の限定性、あるいは防衛性、あるいは抵抗性というものがあって、これは相手を殺しもいいんだ、殲滅するんだという戦争の論理と自分たちの暴力というものを区別しようという意識がどこかで働いていたんじゃないかと思う。私はそういう暗黙のルールが、大衆的実力闘争の中にはあったと思います。
 当時、これは新左翼運動全体で言えば革命的暴力という言葉で括りました。これはある意味便利な言葉で、革命戦争ともつながるし、あるいは重火器を使った武装闘争ともつながるということで、そこに民衆の暴力の持つ抵抗性、限定性というものと、権力を取るための攻撃性、あるいは相手を殺すための闘い、そういったものとの区別が意識的にされていなかったということがあったと思います。私はその点はきちんと総括しなければいけないと考えています。そういう民衆の暴力の限定性、あるいは抵抗の暴力であるという限定性を持たなかったということが、その後の暴力の堕落を招いた。それは内ゲバの問題、これを直視しなければ後世の人たちに、この闘いをきちんと語り継いでいくことはできないだろうと考えています。
 もう一つは、そういう暴力あるいは戦争、毛沢東は銃口から兵力が生まれると言いましたが、そういった革命戦争の中から生まれた国家というものが、どのように変質するかということを、私たちは半世紀を経てまざまざと見ているわけで、中国の現実を見た時に、若い人たちにこの事を語る時に、やはりベトナム戦争を含めて、当時の暴力という問題がどうであったかということを、きちんと私たちが総括して伝えていかなければ説得力がないと思います。
 そういう意味で、現代の新しい社会を考えていく時に、暴力の問題というものをどう考えたらいいのか、ということを抜きにしては将来を考えることができないのではないかと思います。非常に大きなテーマでありますけれども、糟谷プロジェクトでは討論の一つとして、シンポジウムでも取り上げていきたいと思いますので、よろしくご参加をいただきたいと思います。
 山﨑プロジェクトのご協力に改めて感謝申し上げて終りたいと思います。」

3.「中村克己君墓碑委員会」
 「墓碑委員会の鈴木淳夫と申します。
 中村君の墓碑委員会というのは現在は無いわけですが、構成してきた我々にとってはずっと続いておりまして、中村君虐殺に関するお話をさせていただきたいと思います。
 1970年2月25日、府中市の京王線「武蔵野台」駅頭でビラまき中に右翼体育会系学生の突然の襲撃があって、その混乱のさなか、当時日大商学部の学生だった中村克己君が亡くなりました。
 当時日大闘争は、69年の終わりから、当局は疎開授業という形でバリケード封鎖されているところから離れたところで授業をしようという企みがありまして、特に1年生については、文理学部は世田谷に校舎がありますが、府中市旭町に鉄条網で囲まれたプレハブ校舎を建てて、そこで1年生の授業を始めたわけです。70年の2月ということで、1年生の試験が行われる。学年末でそこで終了するということで、文理学部闘争委員会が1年生に対するビラまきを始めたわけです。そこへ体育会系学生が、近所に飯場がありまして、そこで鉄筋の棒とか角材を用意して突然襲ってくる、そういう経過があったわけです。その中で中村君が倒れて、3月2日に亡くなります。亡くなると同時に警視庁は、電車事故による自損行為であるという形で発表して、右翼の暴力はまるでなかったという形で真相を隠蔽した。一方、襲われた部隊は29名が逮捕されて、その中の一人の高橋成一君が起訴されて裁判になるわけです。その裁判も、そもそもは傷害、暴力行為、凶器準備集合という罪名だったんですが、裁判の時は凶器準備集合だけになります。凶器準備集合というのは、凶器らしきもの集めただけで対象になる。ですから、当日右翼が襲ってきたこと、乱闘があったこと、そういう闘いがあったことが一切抜け落ちているわけです。言ってみれば、それを隠蔽しようということで、当局は凶器準備集合だけで裁判をする。そういう経過があって、極めて不当なものです。
 裁判は4年続きますが、何と判決が罰金5万円でした。29名が逮捕されて、高橋君が1ケ月以上拘束されて、そういう事件の裁判だったわけです、ところが交通違反じゃないですよ。罰金5万円です。その辺の政治的匂いがする裁判だった。それとは別に告発闘争をやりましたが、結果としては裁判闘争が終り、現在に至るような感じです。
 中村君が3月2日に亡くなって、1年後に千葉県八千代市の霊園に中村君の墓(墓碑)が作られて、墓前祭を行って、その後毎年墓参を続けてきました。当初は真相究明委員会を作り、後にただ真相を探っていてもしょうがない、闘わなければいけないということで、糾弾委員会と名前を変えて、中村君虐殺糾弾委員会という形でずっと活動を続けてきました。ところが告発闘争も終り、裁判闘争も終り、墓碑の維持管理ということで中村克己君墓碑委員会と改めてずっと続けてきたわけです。墓碑は中村家の墓と併設して作られましたが、2012年に中村家の墓が中村君の遺骨とともに別のところに移ります。そこで、墓碑委員会の責任で(墓碑を)処分することになりました。2020年2月の墓参を最後として、記録として墓碑を拓本として残しました。2012年に最後の墓参をして、去年4月に墓碑は撤去し、11月には墓碑委員会も解散になります。ただ解散と言っても、中村君虐殺の運動はこれからもずっと続けていかなければならないことですし、糾弾委員会、墓碑委員会としてやってきた者としては、ずっと続けていくことだと思っています。
 最後に一つだけ話をさせていただくと、本日は60年代の死者を考えるということで、樺さん、山﨑さん、糟谷さんと権力に虐殺された人たちの死を追悼するということでやっておりますが、中村君もそういう闘いの中で亡くなりましたが、私どもからすると、ちょっと違うなという感じがあるわけです。それは何かというと、中村君が戦ったのは機動隊が相手ではなくて、右翼体育会系学生で二十数名でしたが、十数名は特定されている。顔が分かるんです。そういう中で今日まで続いてきたのは、私からすると非常に重い。引きずっている。個人的には死ぬまで抱え込んでいくしかないと思っています。
 樺さん、山﨑さん、糟谷さんと一緒にこういう問題に取り組んでいけるというのは、非常に心強い気がします。本日、こういう機会を与えてくださって感謝しております。」

4.「津本忠雄君追悼のメッセージ」(司会:佐々木幹郎氏が代読)
 津本忠雄は関西大学の学生でしたが、1969年の9月に京大闘争に参加し、京大の近くの百万遍の交差点近くで、街頭での機動隊との衝突の中で、火炎瓶の炎に全身焼かれて死亡するという、そういう歴史を持っています。
 関大の仲間だった髙木敏克さんからメッセージが届いています。
<メッセージ>
 「津本忠雄について。
 津本忠雄は、1949年4月7日に生まれ、1965年に富山県立高岡高校に入学した。すぐに政治経済クラブに入部して民青に入ったが、1966年8月から疑問を持ち脱退した。この時期、政治闘争から思想闘争に目覚めたのが、新左翼と呼ばれる全学連であり、この運動に自らの哲学の樹立を目指して、彼は富山県における反戦高協の結成に努力し、一浪生活を大阪で過ごしながら全学連の政治集会に参加し、詩を書き続けた。
 1969年、関西大学に入学すると、彼は全学連マル学同中核派の闘争に参加し、理論家を目指した。当時の関西大学中核派の拠点は哲学研究会であった。ここでも中核派と革マル派の部員の白熱した論争が続いていた。この革命的共産主義者同盟の内部の葛藤は、初期の段階では奥浩平の遺稿集「青春の墓標」で象徴されるように、自殺した学生の遺稿文学として話題になっていて読まれていた。初期には政治と哲学の間の自己矛盾と乖離という大きな問題意識が、他方で政治と文学の矛盾と乖離という問題意識として、主に京都の各大学で進展して行ったことは興味深いことでもある。自己疎外的状況が哲学で行き詰まるのに対して、文学は時代状況を切り拓き、多くの文学作品を生み出したように思える。逆に政治と哲学の疎外関係は停滞し、このことがその後の内ゲバ問題に発展していったのではないか、と私は思っています。哲学的課題を残したまま文学に流れて行ったグループは、この時代の根深い謎を止揚していったのではないか。以外と思われるかもしれないが、現在史とは、その批評精神が無意識的な流れの中で思考停滞を止揚して、その後の文化基盤を拓いているのではないか、と私は思う。
 京都を死に場所に選んだ詩人津本忠雄は、そのような流れの中で一人沈黙したが、私には語り続ける存在である。」

●今後の活動計画について
 協力団体からの挨拶とメッセージの代読が終り、最後に辻恵さんから今後の活動計画について説明がありました。
 「皆さん、お疲れ様です。関西でも長崎浩さんにお越しいただいて、同じような形式でシンポジウムをやる予定にしております。
秋の集会は10月に東京で、10月末に大阪でやります。2014年から数えると8回目、大阪は7回目になりますけれども、どういう内容で、どういう人に来ていただいてというのはまだ議論の途中ですので、夏過ぎまでにはご案内できるのかなと思っています。
 2014年の7月から2018年の10月までを第一ステージということで、プロジェクトの活動をやってきました。第二ステージで2022年の10月までやろうということを決めて何をやってきたのかというと、一つは、次の世代にどういう風に引き継げるのかということで、若者との連携ということで、関西を中心に若手の研究者が歴史の題材として三里塚闘争や当時のいろんな闘いを扱って、横のネットワークで100人近い若手研究者の人たちが、60年代70年代をいろいろ研究されているということで、山﨑プロジェクトの側としては、そういう人たちをお招きして、今まで集会をやろうとしてきました。第二ステージの発起人にも、若手研究者の人たちになっていただいています。そういう若手研究者の方々との連携をどうしていくのかということと、一方で本来の運動で頑張ろうとしている若い人たちとの接点も何とかしていきたい、ということで活動しています。
 2019年の京大11月祭に、初めて山﨑博昭プロジェクトの企画を京大の大学院生、学生が設けてくれて、4日間シンポジウムをしたり企画展をやったりしました。その時は、京大の吉田寮が廃寮攻撃で募集を中止したということで、明け渡し訴訟を起こされているんですね。それを支援しなければいけないということで、京大の吉田寮を訪ねていったりということもやりました。そういう意味では、若者にどう広げていくのかということ、次の世代にどう残していくのかということ、50周年記念誌は非常によかったと思いますけれども、さらに具体的に声を発信していきたいと思います。
 50周年集会の時も、ウィリアム・マロッティさんという日本の60年代の学生運動を研究しているアメリカの学者さんが、ビデオ・メッセージで参加してくださいましたが、その後、当時のアメリカのコロンビア大学の学生運動のリーダーで、爆弾闘争をやって8年くらい地下に潜っていた後自首して刑務所に収監された後、現在も気候問題などの社会運動を続けているマーク・ラッドさんをお招きして、東京でもシンポジウムをやり、大阪でも大きな集会をやり、京都の円山公園の音楽堂で行われた反原発集会で発言をしていただく、というようなこともやりました。我々はアメリカで68年から50周年だから盛り上がると思っていたんですが、なかなかパッとしなかった。
 そういう中で「きみが死んだあとで」という映画が、ものすごく大きなインパクトになって、もう1回大きなうねりが作り出せればうれしいなと思っているところです。
 映画を観て、賛同人がボチボチ増えているという状況で、700人近くになっています。
 私たちはもともと、発起人と賛同人が一緒になっていろんなものを作り出していきたいということで、発起人と賛同人の意見交換で今後のプロジェクトをどのように進めていくのかということを考えていく機会を今まで3、4回設定しましたが、なかなか機能していませんが、とりあえずホームページでいろいろな方からのご意見をお寄せいただいて、そこを議論の場にしながら当時を考える、山﨑プロジェクトの今後も考えるという活動で来年まで継続していきたいと思っています。
 山本義隆さんのリニア新幹線の論考をホームページに載せたところ、大きな反響があって、それを受けてみすず書房で出版になったということもありますし、代島監督の映画の書評をホームページで紹介していることを通じて、いろいろな方から声が寄せられています。
 それに限らず、当時のこんな事をもっと議論しようじゃないか、というような事をホームページやネット関係で皆さんからご意見をいただいて、700人近い賛同人と一緒に考えながら、来年の10月までを第二ステージにしていますけれども、その後どうするのか議論していきたいと率直に思っています。
 2022年まで何で第二ステージを伸ばしたのかというと、沖縄(返還)50周年ということがありましたから、沖縄の問題を我々はどう考えていけばいいのか、というところなんです。本土側から何か言うだけでなく、沖縄でどうなんだというところが非常に問題なので、当時の琉球新報とか沖縄タイムスとか、当時の沖縄での反応、マスコミ的状況はどうだったのかということや、いろいろ研究し考えていきたいと思っています。
 その辺の議論を深める場として、10月の集会はもっと若者から企画を出してもらって、半分くらい若者が仕切ってもらうような集会の持ち方もあるのではないかと思っていて、今日お集まりいただいた皆さんが、ご意見なりお感じになったことをご指摘いただいて、一緒に今後のこのプロジェクトを作っていければいいな、と思います。
 以上、経過報告と来年に向けた事務局としての議論の現段階をお伝えさせていただきました。
 皆さんよろしくお願いいたします。」

 これで集会は閉会しました。今回は、コロナの緊急事態宣言下ということもあり、いつものようなプロジェクト関係者と参加者を交えた懇親会は開催しませんでした。
 6月26日(土)に大阪で同じ内容で関西集会を行いますので、そちらにも参加をお願いいたします。

(終)
【訂正とお詫び】
船橋秀人さんの発言中、当初「2017年に東洋大学で竹中平蔵反対アクションで闘いました」となっていましたが、「2019年に東洋大で~」の間違いであるとのご指摘があり、訂正しました。船橋さんと閲覧された皆さんにお詫びします。



▲ページ先頭へ▲ページ先頭へ