講演:樺美智子と私の六〇年代/長崎浩(2021年6月、東京・大阪)
講演:樺美智子と私の六〇年代
10・8山﨑博昭プロジェクト「六〇年代の死者を考える――レクイエムを超えて」(2021年6月、東京・大阪)
長崎 浩
今日の集会のテーマ「六〇年代の死者たち」にそって、昔のことをお話しします。若い世代の皆さんにはまたかと思われるかもしれませんが、ご容赦ください。
私の六〇年代
さて、私には『1960年代 ひとつの精神史』(作品社、1988)という著作がありますが、1968年から始まる日本と世界の同時的な若者たちの叛乱には触れていません。私はわざと67年10・8羽田闘争と山﨑博昭さんの死をもって私の六〇年代を閉じています。この最後のところを少々引用してみます。
十月八日 日曜日、夕食後河宮の電話があって、羽田デモで京大の学生が死んだことを聞く。夕刊休みで、それまで全く知らなかった。すぐ石井暎禧に電話して事情を聴く。
(この後に、当日の党派事情について記していますが、略します。)
殺された者の持つ絶対の権利。自分が彼の仲間でないときは、常に、彼を殺したのはわれわれのせいなのだと思わねばならない。安保の六・一五も、他の多くの人びとはそう思ったに違いない。
夜中にまた音楽と落語。
当時は深夜ラジオで音楽と落語ばかりを聴いていたようです。それはともかく、ここで言う六・一五とは1960年の6月15日、安保闘争の国会デモで樺美智子さんが亡くなった日です。私はこの国会デモを指揮した者の一人でした。すると、樺美智子の死から67年の10・8山﨑博昭が亡くなった日までが、ちょうど私の六〇年代ということになります。68年以前に、私には固有の六〇年代があったということです。私の二十代に当たります。
私もまた若かった。
まだまだやることがたくさんあった
樺美智子は当時東大文学部国史科の四年生でした。日本史専攻ですね。卒業論文の準備に取り掛かっており、安保闘争にはデモのときだけ参加だと言っていました。その6・15の当日、国会正門前で東大のデモ隊に向けて、私は断固国会突入だとアジ演説をしたのですが、部隊の後ろの方から一人「意義ナーシ」という樺さんの声が聞こえました。これが最後です。当時は女子学生はデモ隊の最後尾に配置するという配慮をしていたものです。とはいえ機動隊によって国会構内から追い出されるときになれば、もう前後ぐちゃぐちゃになってしまいました。
数年前のことですが、安保闘争6・15の五〇周年とのことで西部邁と対談したことがあります。私は冒頭で6・15には大学から樺さんたちを引率して国会に向かったと切り出しました。わざと「引率して」という言い方をしました。これには西部が敏感に反応して、樺美智子は普通の女子学生だったのではない。ブント(共産主義者同盟)の同盟員であり、ブントとしてデモに行ったのだとわざわざ私に念を押させてくれました。「引率して」などという私の言い草にたいする気配りです。西部邁という人はこうした人間関係の機微にやけに過敏な人でした。当時の全学連には器質的な敏感さが政治的なカンの鋭さになって現れるような人が結構いたのですね。
それはともかく、樺さんはブントが共産党を割って出た当初からブントの事務所に座るなど、いわばブントの確信犯でした。
その樺美智子が亡くなったとき、詩人の茨木のり子さんが言いました、「彼女にはまだやることがたくさんあったのだ」と。もちろん、彼女はまだまだ若かった、ということではありません。安保闘争が終わった後の一九六〇年代に、時代と自らのブント経験を反芻しながら取り組むべき課題が、ずしりと残されたはずだということです。一口にいって、ブントはマルクス・レーニン主義の革命的復興を掲げて出発したのですが、その理論と経験から解放されること、自らを解き放つ作業が残されたはずです。
実際、一般に言えることですが、六〇年の安保闘争はそれまで理論や思想の営みを縛ってきたマルクス主義という重石が取れて、知識人を解放することになります。良し悪しは別にして、振り返ればこの解放は大きな出来事でした。例えばアカデミズムの世界でも、哲学や歴史学などを始めとして、それまでは学問の規範としても作用してきたマルクス主義の縛りが解けていきます。後は学者のただの自堕落ということにもなるでしょう。後に全共闘運動から批判された通りです。しかし他方では、ここから自由で新しい学説が作られていきます。ポストモダンの思潮が流行することにもつながります。例えば、明治から昭和までの戦前日本の歴史を読めば、戦後の論調の多くが一新していることに気づかされます。樺さんと同学年の坂野潤治の日本近代史を読めばこれが分かります。樺さんが卒業論文を完成してその後学者の道に進んだとしたら、彼女の日本史も数々の新機軸を打ち出したはずです。新たにやることがたくさんあったはずです。
樺美智子の送葬
知識人だけのことではありません。六〇年の安保闘争をきっかけにして、日本の国体とでも言うべき社会と国民の在り方が大きな転機を迎えます。私はまずここで樺美智子の国民葬のことを想起してみたいと思います。
御存じでしょうが、安保闘争では全学連の跳ね上がり行動が、安保条約改訂阻止国民会議の構成団体やマスコミから一斉に弾劾非難されていました。ところが、安保闘争の終わりから幾ばくもなく樺美智子は「国民葬」を以て送葬されることになったのです。国民葬など後にも先にも吉田茂の葬儀ぐらいのものでしょう。
主催は「樺美智子国民葬」葬儀委員会で委員には時の代表的政治家、宗教家、知識人、芸術家が名を連ねています。社会党からは浅沼稲次郎、なぜか共産党の野坂参三の名まであります。総評議長・太田薫と全日農委員長・野溝勝、それぞれ労働者階級と農民運動の代表です。その他仏教界とキリスト教教会、さらに法曹界の代表、文化人は青野季吉文芸家協会会長を始めとした知識人、大学教授たちでした。さらに葬儀の演出担当が松山善三、音楽監督が芥川也寸志でした。当時、安保国民会議には全学連を含めて1,633もの諸団体が参加していたのですから、国民会議主催の葬儀としては不思議なことではなかったかもしれません。葬儀が終わると遺影と遺骨を先頭にして国会南通用門まで大規模なデモが出発した。
以下は江刺昭子さんの著書『樺美智子 聖少女伝説』からの引用です。
沿道では道行く人びとが立ち止まって、頭を垂れながら行列を見送り、周辺のビルの窓からも多くの顔がのぞいて手を合わせた。首都の中心でこんな送葬行列が見られるのは、天皇の送葬のとき以外にはない。
樺美智子はこんな風に送られたのです。10・8の山﨑君の場合と対照してみてください。このように安保闘争は国民運動として終了しました。国民運動がこんな風にその勝利を演出し、同時に樺美智子とともに何かを送葬し何かを忘れたのです。続く六〇年代への通過儀礼が見事に演じられたのです。江刺さんの本を読むまで、私はこの葬儀のことはすっかり忘れていました。
経済高度成長とTVの普及
樺美智子を国民葬として送葬した国民運動は、安保闘争を通過儀礼として、ではどんな六〇年代をもたらしたのか。
安保闘争は五五年以降の戦後政治過程に特徴的な国民動員方式の頂点でした。つまり、平和と民主主義をめぐって国会では与野党の対決、これに呼応して総評社会党主導の統一行動が組織され国会へ向けてデモが行われます。このモデルがその後ピタリと終わりを告げます。そしてその足元で、御存じの経済高度成長と大衆消費社会が盛りを迎えていました。「所得倍増」などという池田勇人首相の噓のような約束がどうやら本当らしい。当時私自身、大学助手の月収が二万円、それが六年間に確かに倍増以上になってびっくりした覚えがあります。ここでまた、先の私の著作『1960年代』から引用します。
この年(1960年)の六月から三か月ほど、私は家に帰れない事情に置かれていた。岸内閣が倒れ代わって池田内閣が成立し、私がはじめて深夜家に帰ったとき、家にテレビが入っているのを発見した。それまでは私鉄の駅前広場に据え付けられたテレビの前で、黒山の人だかりにまじってプロレスなどを見ていたのである。だからこの私の帰宅の夜から、「高度消費社会」「所得倍増」の十年がまさに始まったのである。私には、自分たちが期せずして高度消費社会の水門を開いたのだという唖然たる思いが、その後長くつきまとった。
哲学者の梅本克己の証言もあります。一九六三年の『現代思想入門』から引いてみます。
テレビの普及はついに一五〇〇万台を突破したそうだが、わが家にテレビがはいったとき、私は女房の軽蔑を物ともせず西部劇ばかりを見ていた。
六〇年代の絵柄
いずれも、自分たちが購入したのに、当時はテレビがわが家に「はいった」などと言っていたのです。
私はまた次のように六〇年代のプロフィールを描いたこともあります。例えばテレビ(白黒)など家電製品の月ごと、あるいは年ごとの販売台数つまり普及速度を見れば、速度の鋭いピークが六〇年代の真中で起こって前後の年月を隔てています。東京オリンピックが一九六四年のことです。以前にはテレビがなかったし、以降はテレビのない家庭はなくなるからいずれも速度はゼロです。そして付け加えますが、六〇年安保闘争はテレビの普及速度が急激に立ち上がるその裾野にあり、他方で全共闘運動はピークを挟んで反対側の裾野に位置しています。安保闘争の国民が大衆消費社会の到来する予兆に突き動かされていたとすれば、1968の若者たちはこの社会に最初の不適応を起こしてその自己欺瞞に反抗したのだと思います。私には経済成長速度のピークの反対側から、それぞれ時代と社会の変化に突き動かされている青年たちの姿が見えます。二つの運動があたかもその発端と終焉のようにして六〇年代を連結し、かつ分離している。そういう絵図です。
樺美智子の送葬とともに始まった一九六〇年代とはどんな時代として経験されたのか。私は今テレビの急速な普及を例に挙げて、大衆消費社会の到来という絵柄を提示しました。当時安保の直後に、「黄金の六十年代」の到来だとも言われていました。
とはいえ、こうした日本社会は、戦後復興と経済の動向から自然にやって来たものではないのです。日本国民と知識人たちが安保闘争に勝利したことによって、大衆消費社会をそれこそ大衆的に解禁したのです。先に私は「蕩児の帰宅」ならぬ安保闘争の闘士の帰宅のその夜から、高度大衆消費社会が始まった、我々は期せずしてこの社会へと水門を開いてしまったのだと、当時の感想を紹介しました。安保闘争の先端を走ったつもりの一人が、まさしくその勝利の帰結として思いもかけない社会の渦中に放り出されたのです。この奇態な六〇年代を後の世代に伝えたい。私が物を書いてきた動機の一端がここにありました。
キシヲタオセ
ここで、六〇年安保闘争の経緯と性格について、少しばかりですが私の見方をお話しておく必要があります。
安保改訂阻止国民会議は一九五九年に結成されました。政府が「もはや戦後ではない」と宣言したのが五六年のことでした。それから、安保闘争は国民会議の主導の下に延々十九次にわたる統一行動を展開します。ところが、安保闘争が労組と全学連など国民会議のスケジュール闘争から、名実ともに国民運動の様相を呈するようになるのは60年、それも5月19日から6月19日の最後の一カ月のことでした。五月十九日深夜には岸内閣と自民党によって、安保条約改定は衆議院で強行批准されました。その一か月後に新条約は自然成立します。岸内閣としては後は待っていればいいのです。しかしあにはからんや、この最後の一カ月になると、首都圏では連日群衆が国会周辺を埋め尽くして身動きも取れない状態が出現します。もう国民会議の統制を離れて国会周辺が叛乱状態を呈するようになりました。全学連の動員する学生たちも急進化しました。当時東京大学新聞がルポして「乗り越えられた前衛」と書くような状況です。「乗り越えられた前衛」とはもちろんブントなど新左翼が共産党に投げかけていた悪口ですが、それが今や夫子自身に向けられるという始末です。
国民運動の大衆的急進化だけではありません。「アンポハンタイ」から「キシヲタオセ」へと、スローガンが一夜にして一変しました。竹内好がこう宣言しました。「民主か独裁か、これが唯一最大の争点だ。そこに安保をからませてはならない。安保に賛成する者と反対する者が論争することは無益である」。このスローガンの下に、国民会議に属さない大勢の戦後市民、さらには荻窪の商店街組合などまでが首都圏では国会に詰めかけてきました。
岸信介首相が安保条約を改定して米国からそれなりの独立を目指し、ブント全学連がこれを日本資本主義の自立と捉えて対抗したとすれば、岸とブントとが置いてけぼりを食った形です。安保改定などそっちのけで国民運動が日本を席巻したのです。
国民運動の勝利
経過を追うことはここでは省略しますが、結果として新安保条約は成立しました。とはいうものの、岸内閣は総辞職を余儀なくされました。「民主か独裁か」に安保国民運動が勝利したのです。たかが一内閣が倒れただけのこと、というなかれです。考えてみれば、日本の歴史で大衆運動が内閣を打倒したのは、日露戦争後に桂太郎内閣が日比谷暴動で倒れた例があるくらいのものです。そればかりではありません。岸内閣としては安保改定によって対米従属から一歩自立するとともに、憲法改正と再軍備に取り掛かる展望を懐いていたのですが、これが挫折しました。岸信介を始めとした戦前からの政治家が総退場して、自民党と新内閣の性格が一変します。政治的には「低姿勢」をスローガンとする所得倍増政策の十年がこうして始まります。大衆消費社会の十年が始まります。
安保国民運動に国民は勝利したと私は言いました。ここで国民とは誰のことでしょうか。戦後のこの時期までは日本社会はそれなりに階層的に構成されていました。今日の社会構成とは全く違います。労働者は総評傘下の労働組合に属していました。農民は農協に組織化され、学生もまた当局公認の学生自治会の一員でした。私のころには、入学したときに学費とともに自治会費を納入したものでした。自治会費を差し出しながらちょっと誇らしい気持ちでしたね。自治会は大学ごと、全員参加の学生版ユニオン・ショップだったのです。安保国民会議とはこうして階層的に組織化された一千余の諸団体から構成され、文字通り国民的組織を標榜していました。私は六月四日の総評のゼネストの声明に驚いたことがあります。「労働者も国民の一員として安保闘争に参加することに、遠慮はないと考えます」と、総評は訴えていました。安保闘争は階層的に組織されたが階級闘争ではなく国民運動だったのです。
そして六〇年代も末になれば、大衆消費社会の中で国民の階級的構成自体が溶解していきます。労働組合も学生自治会もにわかに形骸化する。国民は地域ではただの住人に、都会では市民に、国民は一人ひとりばらばら、政治的にはそれこそ「誰でもないただの人」として存在するようになります。選挙になれば各政党は組織を介してというより、「砂のような」地域住民の一人ひとりと直接に対面せざるをえなくなります。学生ももう選ばれた少数エリートではなくなる。国民構成のこの変化の底流が一九六八年の学生叛乱つながります。全共闘運動が当局非公認の闘争委員会を組織して一人ひとり自主的に、というか勝手に闘うようになりました。全共闘は時に「ポツダム自治会粉砕」を唱えましたが、これは民青の支配する自治会の粉砕、ということだけではなかったのです。
世界的にも一九六八年の叛乱は、「私が発言するようになる初めての革命だった」と言われることがあります。全共闘運動でもこれは顕著な事実だったことは御承知の通りです。安保闘争のころは学生も自治会の一員として参加していたのであり、発言の主語は私でなく我々だったのです。ただし、東大全共闘などで見られたことですが、学生という身分の階層性がまだ解体途上にあったことも指摘できます。ストライキの決議も、その解除も、学生大会の議論と決議に依っていました。この学生大会の頻度と時間と参加人員がまた半端でなかった。自治会規約にもとづく学生大会であり、同時に随時の全学集会の様相を呈することになります。これは東大闘争の見方としては欠かせない点だと私は思います。そこでは一個人の内で「私と我々」が相克します。私はもうセクトなどが唱える我々の大義名分などには容易になびかない。といっても、この私なる者の主体性はもう十分に壊れていることも自覚しているのであり、セクトの前衛党主義によって浮遊するこの私を拘束したい。こういうアンビバレンスを経験しました。当時、ハイティーンの少年少女たちまでが唱えた「自己否定」とはこういう事態の表明でした。
充たされた生活
ところで、石川達三に『充たされた生活』という小説があります。一九六一年の刊行です。主人公は二八歳の新劇女優であり彼女が充たされた生活を追う過程を、ちょうど六〇年安保闘争の経過に重ねるようにして日記体で綴ったのがこの小説です。それまで政治に何の関心もなかった彼女が、新劇人会議の一員として次第に安保デモに参加していくようになる。そして、安保闘争の6・15で負傷して入院している劇作家を、ヒロインは付ききりで看護するようになっています。この小説の終わりが六月二十日の日記、つまりは安保国民運動の終わりの日です。一部を引用します。
六月二〇日
今朝午前零時、安保条約改定は自然成立となる。日本中をあげての反対運動も政府を動かすまでには至らなかった。
午前十一時、私は付き添いの小母さんに後をたのんで、外へ出る。街はまだ安保反対デモの人々で、渦まくような騒ぎだった。いそいでアパートに帰り、四日ぶりで銭湯に行く。私はいそがしかった。私の日常生活の基準はこんていから破壊され、破壊されたことを私はうれしがっていた。久しく眠っていた私のからだのあらゆる機能が、一度に身ぶるいして眼をさまして来たような、爽快な気持ちだった。私はそのことに、自分のエゴイズムを感じていた。しかしそれは自分でもどうするわけにも行かない、本能のようなものだった。
どうですか。安保闘争の後の社会に触れる時、私は小説のこの個所を引用紹介する誘惑にかられて、いつも抗しがたいものがあります。事実何度か著作に引用してきました。入院中の劇作家は樺美智子の死について、「俺たちがみんなで殺したようなもんだ」と述懐しますが、「そこまで考えなくていいのではないか」とヒロインは思います。怪我をした劇作家「彼の不幸が私にとっては幸運」と感じる彼女は、このちょっとしたエゴイズムに自責の念を感じています。けれど、にもかかわらず、安保闘争終結のこの朝、初夏の眩しい日差しの中へ出て行く湯上りからだから、身ぶるいして眼をさます爽快な、本能のような力の感覚はいかんともしがたい。さあ、私はいそがしいのだというわけです。
『充たされた生活』のこのヒロインたちが、こうして安保の国民運動から街に散っていきました。その先の「いそがしい」社会、それが大衆消費社会であったに違いありません。安保闘争の先端を走ってきたつもりの全学連の私などが、期せずしてこの社会へと堰を切ってしまったのです。かのヒロインと違って、私などは唖然とし呆然自失している。彼女ら国民運動の同志市民たちの、これは裏切りであろうか。実際、国民は皆爽快な身ぶるいに身を任せて、心置きなく出て行ったようなのです。エゴイズムという自責の念を振り切って、身ぶるいして眼を覚ます本能のような力に促されてです。私は先に上げた『1960年代』で、『充たされた生活』のヒロインの日記とちょうど逆に、私などが日々追い詰められていく一種デスパレートな気持ちを対比して並べるという工夫をしました。
要するところ、全学連の私などは、あたかも唐突のようにしてその後の社会に放り出されていたのです。学生運動も底をついた感がありました。かつての同志市民の裏切りは小気味のいいほどのものに思えましたが、同時に孤立無援の感には著しいものがありました。そこに怨嗟(逆恨み)の感情がなかったとは言いません。けれどもこの時私などが直面していたのが、世界史的かつ大衆的な意味で、近代というものであったとしたらどうでしょうか。大衆消費社会という形をとった近代の初めての到来、これにどう向き合い距離をとればいいのか。私には、そして安保闘争に勝利した国民と日本の知識人にも、この経験に備えというものがまるでなかったのです。
明治百年の国民革命
さてこうして、安保国民運動の渦中に翻弄されたものとして、振り返って私は安保闘争とは一個の革命だったのだと思うようになりました。明治百年の歴史を総括する国民革命です。この革命に勝利することを通じて初めて、国民は戦争と貧乏とを忘れて、いわばあとくされなく大衆消費社会の享受へとなだれていくことができました。安保闘争は敗戦後の国民が再び国民として受肉するための通過儀礼となった。私はこういう言い方をしていますが、受肉とは観念が無意識にも身につくということです。
当時同志社大学の一学生だった保坂正康氏(歴史家)が後に書いています。
いまの私の率直な感想をいえば、あのときの安保闘争とは、岸首相への嫌悪感に代表される太平洋戦争への心理的決算と、敗戦から一五年を経ての戦後民主主義そのものの確認の儀式、といった趣があったように思う。
これは一九八六年の『六〇年安保闘争』という著書からの引用です。これは保坂のデビュー作だったはずですが、安保闘争とは一般にこんな感じだったなあと思わせる穏当な本です。その保坂が、安保闘争はすぐる戦争の心理的決算、そして戦後民主主義の再確認の儀式だったと言うのです。私の感想も同様です。
そして今では、この国民革命の遺産が重い惰性となって国民の言動を縛っています。右であれ左であれ、どんな重大な政治決断もできないほどにこの惰性体が政治の重石として働いています。それが「日本の平和」です。早くも一九六八年の全共闘運動が「戦後民主主義批判」を唱えたとき、そのターゲットとなったのもこの惰性であったに違いありません。
同じことは戦後憲法についても言えることです。安保国民運動に勝利して、戦後憲法体制もまた定着するようになります。米軍から押し付けられた戦後憲法が、それと気づかずに国民に受肉されるようになりました。だから以降、憲法ことにその九条の改正が今日に至るまでタブーになるのです。岸内閣の下では、世論調査でもまだ改憲賛成が30パーセントと、反対20パーセントを上回っていました(1955年、朝日新聞)。安保闘争後に、この比率が圧倒的にひっくり返ります。以降は、自民党の政治家でも敢えて改憲を唱えるのはタブーになります。ようやく最近では、改憲の賛否の比率が三対二と半世紀ぶりに再度逆転するようになりました。それでも、本気で改憲を進めようとする政治家など一人もいません。世論調査でも、九条改正となると賛否は二対三のままです。繰り返しますがこれが「日本の平和」なのです。
思えば皮肉なことでした。樺美智子とブントはその革命観念と似て非なる国民革命の、そのまた先端を走ることになりました。そして、大衆消費社会の真中に放り投げられたのです。この新社会に対する備えというものが、当初私たちにはまるでなかったのです。樺さんにはまだまだやることがたくさんあったとは、この新奇な社会に直面して、自分を立て直す孤立無援の闘いがあるはずだったということです。
戦後唯一のナショナリズム
安保闘争という国民運動については、もう一点指摘しておきます。ナショナリズムのことです。振り返ってみれば六〇年代の高度大衆消費社会の到来とは、明治の開国以降の我が国の近代化の完成でした。時あたかも明治維新百年がこの意味で祝われたのです。言論の世界では「近代化」が改めて合言葉になった。左翼は恨みがましくこれを「ケネディ―ライシャワー路線」と呼んでいました。米国ではすでに高度大衆消費社会が到来しており、今後はどこへいくのかと、ロストウが六〇年に問うています。「赤ん坊か、倦怠か、三日の週末休暇か、月世界旅行か」と(『経済発展の諸段階』、1960年)。ここで赤ん坊とは国民が子だくさんになるという選択です。実際、アメリカ国民はその後この「路線」を取ったのだといいます。
ただし、日本の近代化とはイコール対米従属の強化ということではありませんでした。かえって、大衆消費社会をそれこそ初めて大衆的に経験することを通じて、日本国民は敗戦以来初めて「中学生程度」であれアメリカを卒業することができたのです。だいたい、安保闘争は米国では反米の「東京暴動」と呼ばれていたのです。なにしろ米国大統領の訪日をダメにしたのですから。
また先の『充たされた生活』を引用しますが、これも安保闘争のピーク、五月二十日の日記です。ヒロインは時間が空いたので街の映画館に入る。「街という街は、旗やプラカードをかついだ人たちで一杯だった」、そして、
映画館にはいってみたが、私はおちついて映画が見られなかった。いま見て来たばかりの、ずぶぬれの大群衆が眼にうかび、気持ちがさわいでいた。アメリカ映画の派手なラブ・シーンなどが馬鹿くさく見えて、何の共感もなかった。私はやはり日本人であり、日本の民衆のひとりだった。民衆の憤りが、いつの間にか私の心にも火をつけていたようだ。
それに、社会学者の吉見俊哉氏によれば、六〇年代を通じて「消費社会型のアメリカニズム=ナショナリズムが確立していく」と指摘されています(『親米と反米』、2007)。家庭生活の電化が進んでその主体として「主婦」というものが構築された。他方で男たちは、メイドインジャパンの工業技術を誇り、ナショナル・アイデンティティを再構築することができたのだといいます。アメリカニズムが同時にナショナリズムであるという奇怪な等式が経験されました。安保闘争は日本の戦後史で唯一、ナショナリズムの発露を意味したのです。ただし、安保闘争以前、五六年の砂川闘争を始めとして米軍基地反対闘争が各地で行われていました。全学連が政治運動を始めるのも砂川闘争が契機でした。それが結果的には沖縄に米軍基地を集中させることにもなります。こうして、基地反対闘争とは切れたところで六〇年安保闘争のナショナリズムが経験されたのです。
先生方と手を切る?
さて、戦後知識人のことです。安保国民革命に国民と知識人が勝利したのだと私は言いました。その国民が大衆消費社会へと傾れて行ったとして、安保闘争で活躍した戦後知識人たちはどうなりましたか。小熊英二氏が指摘しています(『<民主>と<愛国>』、2002年)。鶴見俊輔は「矢玉をうちつくして」鬱病になり、竹内好や丸山眞男は研究室に戻り、若い世代の江藤淳はアメリカに渡ったと。これでは文字通り話にならない。総じて、彼ら戦後知識人たちは安保闘争の後、日本史上初めての大衆消費社会の到来に直面し、この大衆的近代に立ち向かうことから逃亡したのです。それでいながら、彼らはその後もこの国の文化権力として影響を保ち続けていきます。これもまた安保国民革命の勝利の現れでした。安保闘争後の六〇年代に私などが孤立感を深めていたのも、知識人たちの動向と左翼文化権力の成立にたいする不和の感がもたらしたことでもあったのでしょう。
そういえば、すでに福田恆存が警告を発していました。「私とは全く反対の立場にありながら、私が最も好意を持つ(全学連)主流派諸君に忠告する。先生とは手を切りたまへ」、と(「常識に還れ」、1960年)。全学連は国民運動の功労者であると同時に邪魔者であり、同行者の暴行は否定しながらその成果だけは貰い受けたいというのが、「文化人の日頃の流儀である」からだと、福田恆存は警告するのでした。
けれども後の祭り、御存じの通り先生方と手を切るごとき運動を始めるのは、一九六八年の全共闘になってからのことです。いずれにしてもそれ以前、日本における高度経済成長社会の到来のことを、私は「戦後最大の思想的事件」と呼んでいます。私に固有の六〇年代に私はこの事件に遭遇したのであり、その気持ちは今も変わりません。安保闘争あるいはその後の全共闘運動もさることながら、両者の間に挟まれた時期、この思想的事件が私の六〇年代のメルクマールということです。
革命の可能性と不可能性
安保闘争は一つの革命だったと私は言いました。けれども、樺美智子や私などが思い描いていた革命とは、それこそ似て非なる革命だったのは言うまでもありません。敗北とか挫折とかの言葉がはやった所以です。マルクス・レーニン主義の革命を復興することが、ブントという「新しい前衛」をめざす私たちの盟約だったからです。安保闘争はそのほんの一里塚、手段のはずでした。これら二つの革命像のコントラストは小気味のいいほどに対照的でした。ですから革命というコンセプトのこの齟齬を埋める思想的な課題が、当然のことながら六〇年代に残されました。マルクス主義の再学習と、次なる時代の新たな帝国主義論の模索といったところです。しかし六〇年代も半ばになり、これまで縷々申上げたようなポスト安保闘争の社会の真中で、これではだめだ、何かが違うという気持ちが起きるのをもう無視することができなくなります。そんなころに、次のような言葉が脇からど突くようにして響いてきました。
嘘だ嘘だとおもわずには、どんな言葉もうけとめられないし、書いた瞬間から、言葉を嘘だとおもわずにはいられない失禁感があるとすれば、それがまぎれもなく思想の現状を占う深い資料になっている。
これは吉本隆明の「自立の思想的根拠」(一九六五)からの引用です。次いで、三島由紀夫が書いていました。
二五年前に私が憎んだものは、多少形を変えはしたが、今もあいかわらずしぶとく生き永らえている。生き永らえているどころか、おそるべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまった。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善というおそるべきバチルスである。 (「私のなかの二五年」)
六〇年代にはこのようにしてマルクス主義の「理論」という言葉が、「思想」というタームに置き換わっていきます。そしてこの思想なるものも、その内容自体というより、思想の態度を問うようなものなのでした。「この世に思想というものはない、人々がこれに食い入る度合いだけがあるのだ」(Xへの手紙)とは小林秀雄の言い草です。文芸批評のこの流れから思想というタームも戦後に受け継がれたのだと思います。こうした呼びかけは一種の思想的脅迫のようでもあり、同時にまた、私の思想の態度の転換にたいして「そうだ、これでいいのだ」と、自ら納得するよすがにもなりました。
とはいえ、思想の態度でなく思想そのもの、土俗であれモダンであれ、その内容自体が自立してどうしていけないのか。七〇年代に入れば、私は思想でなく思想の態度という思想の在り方を「思想という魔語」として嫌うようになります。それで恩を仇で返すようですが、吉本さんの死去に際して、「思想の自立を妨げた思想家」と題する弔辞を書きました。
さらに、マルクス主義の陣営では、「世界は変わった!」というイタリア共産党書記長トリアッチの呼びかけに応えて、日本でも古参党員たちが共産党を離れて構造改革論(コウカイ派)の論陣を張るようになります。ソ連邦を中心にして今や社会主義世界体制が成立していること。この体制のますます発展する影響力のために、レーニンが予想したような世界戦争は不可避でなくなり、両体制の平和共存が必要でありかつ可能だ。そして我が国でも、民主主義的改革を通じて、社会主義的革命の平和的移行が可能である。これが構造改革派の新しい革命路線の提唱でした。
構造改革派の登場は当時私には「真に差し迫った問題」と受け取られました。けれど本当のところ、彼らの新理論と新路線の可否いかんということではなかったのです。そんなことならこちらもいくらでも議論ができます。そうではありません。当時構造改革派の主張を通して響いて来た無言の呼びかけは、今や革命は不可能だという声でした。この声が私を脅かし追い立てていたのです。これ以降、革命の可能性はその不可能性の問いと等価のところで、問われなければならなくなります。
最後に
さて、初めに私は言いました。「彼女にはまだやることがたくさんあったのだ」と。最後になりますが、ここで私自身のことを少しだけお話ししておきます。私は一九六八年に「叛乱論」を書いて評論活動を始めます。「叛乱論」の発表は全共闘運動に触発されたものですが、中身は「私の六〇年代」です。私はこれを発表することによって、それまでのマルクス主義による革命論を切断してしまったようです。革命とは独立に、「近代にたいする大衆叛乱」があるのだと私は言いました。「近代」という言葉遣いによって、資本主義の矛盾から危機に至るという革命の因果を断ち切りました。叛乱の主体を「大衆」だとして、労働者階級プロレタリアートの革命独裁というマルクス・レーニン主義を棄てました。同時に、マルクス・レーニン主義の革命論とその歴史から叛乱(論)を自立させることを意図しました。そこから出直して「革命の問い」を近代への大衆叛乱から始めるとして、これはどのような革命と革命過程につながるものか。「叛乱論」は革命と政治の問いを、前衛党とプロレタリアートでなく、アジテーターと大衆の関係にまでリセットしています。では、アジテーターとしての「この私」は、つまり大衆叛乱はどのような政治の遍歴を歩むことができるのか。私が自らを追い込んだ迷路です。
おかしな話ですが、六〇年ブントの時期には新左翼という言葉は自他共に使われていませんでした。ブントは新しい前衛を目指すと言っていました。背景には一国には唯一の前衛党があるべきだと信じられていたのです。ついこの間まで、共産党の宮本顕治が公言していたことです。するとブントとしては共産党の代わりに、広く言えば安保国民会議のうちで、唯一の前衛党に成長すべしという組織路線を取るほかないと思われていました。これが二〇世紀初頭の第二インターの分裂以来の、「左翼反対派」という立ち位置です。ところが1968になりますと、全共闘もセクトも新左翼の運動と呼ばれるようになります。しかし、もう国民会議はないし共産党民青は初めから敵です。労働組合の体制化は自明の前提です。セクトで言えば、旧左翼に対抗してでなく、他の新左翼諸セクトにたいして唯一の前衛党はこっちだと主張して党派闘争を展開する羽目になります。しかもそれでいて、安保ブント由来の労働者左翼反対派という自己規定は暗黙の前提でした。第二次ブント、とりわけ革共同両派にとってはそうです。新左翼諸セクトどうしの党派闘争が内ゲバになりやすいのも、セクトが同じく左翼反対派としてあったからであり、各セクトがこの左翼反対派の陣営内部でまた左翼反対派、つまり唯一の前衛党であろうとした配置にあったと、私は思っています。歴史的にいって、旧左翼と左翼反対派の関係がすでに暴力沙汰、つまり内ゲバになりがちでした。加えて、新左翼どうしの内ゲバは言ってみれば内・内ゲバという近親憎悪に内攻して、外ゲバという「戦争」になりえなかったのです。戦争なら戦争しないこと、途中でやめることが可能です。内ゲバを止めるには旧左翼にたいする左翼反対派という枠組みを壊さなければ、したがって新左翼という性格を棄てなければ駄目だというのが私の考えです。そこに、安保ブントの、なかんずくその潰れ方が残した禍根があったと思っています。
さてこうして、樺美智子の死から山﨑博昭の死まで、私の一九六〇年代に、私にもまだやることが残されていたというわけです。そして直後に、私は全共闘運動あるいは日本の1968に遭遇することになります。六〇年安保闘争からの問いを持ち越したまま、日本の1968を迎えました。全共闘運動がなければ「私の六〇年代」という経験は完結しなかった。私はそう思っています。
樺美智子さんが生きていればどうだったか、時にそう思います。
以上