小長井良浩弁護士「山﨑君の死因について」他を《10・8の衝撃と反響》に再掲

 1967年10・8羽田闘争とそこでの山﨑博昭君の死は、ベトナム反戦の鮮烈な訴えとなりました。政府・警察は、それに大きな打撃を受け、「山崎君轢殺」説を流すとともに「過激学生」非難の大キャンペーンを張りました。
 それに対してはいくつもの反論が加えられましたが、ここでは当時、遺族代理人の小長井良浩弁護士の『朝日ジャーナル』掲載の論稿を紹介します。サイドバーの《10・8の衝撃と反響》をご覧ください。
 小長井氏は10・8当日の夕刻、牧田第2病院(大田区大森)で、社会党国会議員、弁護士、友人とともに、山崎君の遺体と対面し、受傷状態を現認しました。病院長ら医師からの説明も受けています。頭部・顔面の傷があり、死因は脳内出血と確認しています。その実見にもとづいて警察の流す「轢殺」説を詳細に論駁したものが、本論稿です。今から振り返っても、山崎君の死因をめぐる歴史的な文書であるといえます。

羽田・佐世保救援の訴え(97氏連署)を掲載
 10・8羽田闘争に続いて、11月に佐藤首相訪米阻止闘争が取り組まれ、さらに年を越えて米原子力空母エンタープライズ佐世保入港阻止の大きな運動が繰り広げられました。警察の弾圧、過剰警備に対して強い弾劾の声が巻き起こりました。その弾劾の柱となった97氏の「訴え」を《10・8の衝撃と反響》掲載しました。
 当時のベトナム反戦の運動の広がりが示されています。

「プロジェクト・ニュース」№2を掲載
 「10・8山﨑博昭プロジェクト・ニュース」№2(4・30発行)では、◎6月展覧会と講演会のお知らせ、◎ベトナム「戦争証跡博物館」での特別企画展の現状、◎賛同金公募目標の提示、◎当プロジェクトの活動記録、◎50周年記念誌への寄稿のお願いなどを記しています。賛同人にお送りしたものを当サイトに掲載します。
http://yamazakiproject.com/projectnews/2016/05/05/2638



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