10月8日、第5回東京講演会:高橋武智さん、中山千夏さんが講演(記事と写真、2016年)

「10・8山崎博昭プロジェクト」第5回東京講演会
羽田闘争とベトナム反戦から考える―この国家どうする―

10月8日、当プロジェクト主催の第5回東京講演会(主婦会館プラザF)では、高橋武智さん(翻訳家・元ベ平連/ジャテック)に「ジャテック活動を今振り返って」、中山千夏さん(作家)に「さらにひどい国家 どうする?」の題目で講演していただきました。

高橋武智さん:「ジャテック活動を今振り返って」

若い方が随分いらっしゃるんで、非常に心強いです。ご存知無い方のための予備知識で、先にさせていただきますね。皆さん持っていらっしゃるものの一番上の行に、10・8山﨑博昭プロジェクトと書いてあります。これは1967年10月8日であるということを覚えておいてください。その日に何があったかというと、「佐藤訪ベト」と言うんですけど、佐藤首相――この人はノーベル平和賞をもらったという信じがたい人ですが――が、ベトナム訪問するのに羽田空港から出発するのを阻止するデモの中で山﨑(博昭)さんが亡くなったんです。それはおわかりだろうけれど、しっかり覚えておいてください。それから、ひとつ付け加えておきたいのは、JATECというのはこういうものだと書いてありますね。正しくは「JATEC(Japan Technical Committee to Aid Anti War GIs―反戦脱走米兵援助日本技術委員会)」というんですが、技術(技術的)というのは、JATECというグループが、自分たちがポリシーを持っているとか、というのではなく、ただ黙々とやると、こういう意味なんだと思っておいてください。

地下組織という言葉も書いてありますが、地下組織というと大げさですが、実際ベ平連とJATECは表裏一体で、地下であったときもあり、オモテに出てやっているときもあった。僕なんかもその一人です。

さて、ここではベトナム戦争の始めのところを押さえさせてください。たぶん皆さんご存知だとは思いますが。アメリカとベトナムの戦いですよね。ベトナムでは「アメリカ戦争」と言っているそうです。アメリカでは「ベトナム戦争」と言っています。これを推し進めたのは誰か。これは忘れないで欲しいんです。テキサス州のダラスで暗殺されたあのケネディです。優秀な政治家だと言われて一族は今でも繁栄しているようですけど。あの人なんですよ。あの人が軍事顧問団を南ベトナム――ベトナム共和国、これは傀儡政権――に送ったんです。だからもしあの人が暗殺されなければ、後を継いだジョンソン大統領と同じように軍を出すところまで行ったと僕は思います。(これは仮定の問題だからね、議論することではありません。)

で、ベ平連はいつ生まれたかというと、1965年の3月に北爆を始めたんです。これは大変だというので、市民が立ち上がってベ平連を作ったということですね。その代表は小田実という作家でした。日本では1965年の4月に初めてのデモを行いました。

みなさん、どこの国が最初にベトナムに軍隊を送ったと思いますか? アメリカじゃないんです。それは韓国なんです。韓国軍なんです。韓国が北爆より前、1963年のに送っているんです。軍隊を動かす以上はアメリカに同意してもらわなければ、できないんだけれども、今の韓国大統領の親父の朴正煕が送りたくて送りたくてしょうがない。それじゃあ、やってみたらということで、アメリカも同意を与えたんですね。
1963年というのはすごく早いんです。北爆が始まるのが65年で、そこからベ平連が出てくる。63年から73年まで、のべ32万人の兵士を送ったんです。そういう侵略はどこへ行ってもやることは同じで、有名な例だけあげれば、米軍がソンミ村で住民の虐殺をした。皆殺しですよ、ほとんど。と同じように、韓国軍も、これもいくつもいくつもあるけれど、代表的な名前で呼ばれるのはハミ村で住民をほとんど皆殺しにしたんです。そういうことが良心的なジャーナリストなどによって今や明らかになって(されて)、韓国市民の中からベトナムに謝罪するというキャンペーンが起こった。ということがあります。
韓国軍の出動に巻き込まれた兵士、つまり行かされそうになった兵士が脱走をしました。それは金東希という兵士です。この人は日本に密出国したんです。日本に密入国したといったほうが正しいね。逃れるために。そして、これは要請書を書いているわけ、日本には平和憲法があるから亡命を認めてほしい、と。そういうはっきりとした意思をもって来たんですね。最初の脱走兵ですよ。だから本当はJATECはそこで始めるべきだったということになるんだけど、それは今更言っても仕方がありません。で、彼は大村の収容所に入れられた。そこから出入国管理に反対する運動は、ひとつは始まっているんですね。私はそのころフランスに留学しておりまして、フランスで運動をしていたわけなんです。ベ平連はなんでも自由だから。身近にいる学生たちのベトナム反戦の小さな集会に言って訴えたんです。われわれが恐れていたのは、金東希はおそらく韓国に強制送還されるだろうという見通しだったんです。何とかそれを阻止しなければならないということで、大きな集会ではなかったけれど、たちまちその場で日本政府と韓国政府に抗議するという決議が出て通ったんですよ。国際連帯というのは、そういうふうに対応しなければいけないんだと、僕は学んだつもりです。

67年の10月8日ですが、まだ(フランスから)帰ってきて一週間も経ってないうちだったんで、僕は参加できなかった。それが10月。11月になると日本のなかでベトナム反戦運動が激化したんです。11月には3日続けて事件があったんです。ひとつはエスペランティストの由比忠之進(ゆい・ちゅうのしん)が首相官邸の前で抗議の焼身自殺をしたんです。
次の日は、ベ平連が米軍の兵士が脱走して、それを支援した。あまり詳しいことは言えないわけだから、そこはその程度で。
これは大変なニュースになります。大変なカンパが殺到してね・・。
それからもう一つの事件は、佐藤訪米なんですよ。この3つのことがかさなって僕もやるしかないということで、JATECの(まだJATECという名前もなかったけれど)手伝いをした。
今から反省すると、韓国がベトナムに介入したときにわれわれは意識をもって考えるべきだったと思います。今更言っても仕方がないですが。

さっきの金東希はどうなったかという話をします。
金東希の運動が日本でもずっと続いていたわけですが、その頃いちばん熱心だったのは、フランス学者の先輩である鈴木道彦さんでしたね。彼といっしょにその集会に行ったら、その、青天の霹靂というんですかね、つまり金東希はすでに北朝鮮に送ったという発表があったんです。僕らが予定していたのは「強制送還するな」ということだったから、そういう意味ではそれとは違う解決方法ではある。しかし、誰がどうやってそういう取引を決めたのかということは一切明らかになりませんでした。何度尋ねても答えはなかった。そして、生命をとりとめたということはもちろんベターであったとは思っていますが、その後どうなったかということがわからない。ベ平連の代表は小田実先生ですね。彼は日本の反戦のリーダーであるわけだけれども、彼は世界的に歩き回って「なんでもみてやろう」という貧乏旅行のベストセラーを出して、世界の反戦運動を見てまわっている。北朝鮮にも行った。その時、金日成にも会った。その時に金東希はどうしてますか?と聞いたわけなんです。そうしたらすぐ調べてみるということでしたが、返ってきた答えは「そういう人はいない」という返事でした。これは北朝鮮に対する大きなQuestionが残るわけです。しかし最高指導者にそう言われたらどうすることもできない。ということで、気がかりながらも、どうしようもなく終わってしまった。ハッピーエンドには終わらなかったということを付け加えておきます。

それで、先にも言いましたが1967年に11月に空母イントレピッド号から脱走した4人の水兵、これは大変有名でThe Intrepid Four と呼ばれてるんですね。The Intrepid Fourのことを記者会見して、そのときはソ連が助けてくれた。The Intrepid Fourは数日後にソ連を通ってストックホルムに入ります。ストックホルムは、パルメという首相がいたんですが、世界で唯一、ベトナム戦争に反対するという態度をとっていました。

こういう支援について興味がおありだったら、『私たちは、脱走アメリカ兵を越境させた……ベ平連/ジャテック、最後の密出国作戦の回想』(作品社、2007年)があります。これはもう新本を買うことはほとんど不可能なので、大きな書店にいけばどちらも見られると思います。

諜報部隊の活動について情報公開を請求した、海軍のものは公開されなかった。抑える理由があったんでしょう。それを見ると、すごいですね。さすがにプロですよ。僕らがアジトにしていた家とかね、特定されているんですよ。名前まで特定されている人間もいます。そういうことを直ちにやっていた。有能なんですよ。そういうひとりがスパイ・ジョンソンで、そいつが諜報部隊の一員だったに違いないと僕は思っています。実際に渡るときに、そいつが姿を消して本物の脱走兵が捕まってしまった。そういうことで、JATECは弾圧を受けることになったわけです。

どういう考え方であったかというと、諜報部隊の人間が入りこんでいるからソ連が協力できないと言い出した。やむを得なかったと思います。それに僕は肩を持つつもりはありませんけどね。
方針を転換して、いくつかのグループに一人ずつ脱走兵をなるべく長期に預けるというようにしました。それはある程度、一年二年はもったんです。しかし、海外に出せないということは、もっと難しいわけですね。それで小田実は世界中を駆け回っていたわけだから、方法はないものかと考えていて、ちょっとヒントだと思われることをつかんだので、実行しました。連絡が来たわけですね。それで僕は大学を辞めて行ったわけなんです。何故辞めたかというと、そういう交渉ってやっかいなわけですよね、皆さん想像がつくと思うけれど。上手く行ってもどのくらいかかるかわからない。それで一身上の都合によりということで辞めた。
それで行った。行ったら、小田さんの線はだめだったのよ、結論的に言うと。それで、しょうがない。僕が来た以上、ここでなんとかしますということで、「あらゆるドアをノックする」という言葉がありますけれども、運動上知っている人たちがいるから、そういう人たちをノックして回ったんですね。そうしたら、—そこがすごいところで—地下組織にぶつかったんです。ぶつかったというか、向こうが僕をそこに引きずり込むようにアレンジしてくれたんです。知らないうちにそこへ行ったっていう。。名前はみんな仮の名前、コードネームで呼び合っている。もちろん僕にもコードネームがつく。そこへリーダーが来て、リーダーに会ったんです、クルマの中で。旅券を変造しさえすれば、いいと自分たちは考えていますと、望むならば(その方法を)私たちは教えますよ、というふうに言ったんです。僕はそこまで行く可能性がなくはないとは思っていたけれど、向こうから言ってくれるんだから、こんな嬉しいことはなくて、その場でお願いしますと言って、変造のプロの人に2時間か3時間教わって、それで終わりですよ。あとは、日本に帰って絵描きさんに相談すれば、変造の旅券を集めなきゃいけないという仕事が残っていた。その変造も、脱出はみごとに成功した。次の年までに成功した。もちろん、そのときは2人だけです。でもそれは大成功です。今も大成功したものと、練習をしたものとは、全部立教大学の社会研究センターに資料として置かれています。いつでも見ることができます。

じつはその間に運動の方針が世界的に変ったんです。脱走援助運動といえば華々しいし、カッコイイといえばカッコイイ。ところが、脱走兵を支援するということはものすごく労力がいる。脱走兵はいくらでも出てくる。その人たちをいくら送り出しても戦争が終わるわけじゃない。「ベトナムに平和を!」という最初のスローガンがかえって遠のいてしまう。それで、これはベ平連はベトナム戦争という国際的な事件を相手にしているわけだから、アメリカやヨーロッパの市民運動と連絡をとっていたんですね、これは全世界のベトナム反戦の方針転換であったんですね。僕もやっかいなというのは体感していましたが、志の変わらない2人だけを送って辞めたんです。

で、どういうふうにしたかっていうと、兵士に軍隊内に留まって抵抗せよという方針に変った。これを日本では米軍解体運動というえらそうな名前をつけていましたけれども、米軍を解体しちゃえということですね。解体するというのは、中から解体する。おおきくI期Ⅱ期とわければそういうことになる。脱走兵支援から米軍解体運動へ、そういうことですね。

そして、米軍解体運動というのは、少しお話しますと。
いくつかどういうことをやったかということを具体的にお話したほうがいいと思うんですけれども、ひとつは反戦放送というのをやったんです。トラメガでもって、そばに行って、反戦情報を聞こえるように訴えるんです。それは、ベトナム戦争の野戦病院が日本にもあったんです。そういうところが特に有効ですね。大泉市民の集いというグループが初めてやったのです。反戦放送の反応が出てくるんですね。そして連絡がくるんです。

もう一つは、GIペーパー。GIが出す英語の新聞。印刷はほとんど基地の周りの日本人の市民がやった。「この新聞はあなたの所有権に属するものである」。つまり、これはあなたのものですよ、あなたの所有権の範囲のものだから、あなたが手に入れたんだからあなたのものですよ、上官から没収なんかされてはいけない、断れ、ということを言っているわけですよね。これはアメリカ民主主義ですね、なるほどというふうに思います。
そういうのがほとんどの重要な基地では行われました。

この前、山本義隆さんが話をされましたけれど、この前彼が監修した「ベトナム反戦運動の時代」という展示のなかで、GIペーパー、あんなにたくさん並んでいるのは初めて見ました。僕はそういうことをやっていたから、その都度見ていたけど、目の前であれだけみたのは初めてです。皆さん、想像を絶しますよ。

ただあの時はいろんな残念なことがありましけど、沖縄でのそういう戦いと僕らが繋がれなかったこと。もちろん沖縄でのGIペーパーはあります。それは別の、反戦GIをまとめる運動をしていた・・・っていうアメリカの活動家ですね、ベトナム戦争終了直後に出した『反逆するGI ベトナム戦争下の兵士の抵抗』という本がありまして、その最後に世界中で出ていたGIペーパーがリストアップされているわけですね、それはもうすごいものですよ。
それともう一つね、基地の周りで凧揚げをやったんですよ。それは別にそんなに深い意図があったわけじゃなくて、いわゆるデモンストレーションとしてやっていたわけです、デモや集会のときにね、景気がつくかなということで。そしたらじつは、飛行機が飛ばなくなるということがわかったんです。バードストライクっていうのがあるでしょう。鳥がエンジンに吸い込まれると、エンジンが破壊されちゃうっていう。凧でもそうなるのかどうかわからないけど、あちらはそう思ったわけですよ。
まぁ、こういう民衆の抵抗方法があるなっていうことも、僕らはわかりました。

もっとそれが進めば、「今飛行機が行ったぞ」ということを南ベトナム臨時革命政府に伝えることができれば、向こうがそれに備えることができるとかね、いろいろなことが可能だったということが後で分かるんだけども、実際にはそういうところまでは行きませんでしたけどもね。

重要な危機、日本の岩国に海兵隊の基地があって、そこからベトナムに行って爆撃して帰ってくるんですよ。ところがその岩国で――理由はよくわからないけど――いちばん強い軍隊内抵抗が組織されたんです。これはすごい、世界的に強い抵抗運動です。もちろん僕らは、JATECはそこに行って、フェンスに張り付いていろいろやりました。そこにコーヒーショップ(喫茶店と訳していいんだけど、あの時期は反戦の特別な意味をこめていた)を作ったんですね、京都のベ平連と博多のベ平連がお金を出して活動家もそこに送り込んで、「ほびっと」っていう名前で。これが非常によかったんですね、兵士が自由に来て、反戦新聞も読めるわけですよ。軍隊内では持ってることはできても読むのは難しいでしょう、やっぱりね。
でもそれが出来た、そういうことが出来た。日本の反戦活動家とも交流が出来た。

これはついでに。ついこの間、オバマ(大統領)が広島を初めて訪ねて濃い発言をしたっていうので評判になってますでしょう。あの時彼は、どこから広島に行ったかご存知ですか。岩国なんです。今でも岩国に海兵隊の基地があるんです。その頃はなかった自衛隊の基地が(今は)隣にあるんですね。オバマはそこに行って、そこに来賓としておそらくは県知事だとか市長だとか、それから両軍兵士を前にして「日米同盟はますます良好になりつつある」という演説をぶって、広島に行ってカッコ良さそうなことを言っている。僕はとくに今日これを言いたいですよ。つまり、いかに裏があるかということですね。

米軍解体運動の世界的なリーダーというか、コーディネーターですね、

当時米軍兵士組合というのを作ってたんです。作ったときに、すぐ助けに来てくれたのはベ平連だったということが、ちゃんと書いてあるんですね。米軍解体運動こそ、結論的に言えば決定的にアメリカを敗北に追い込んだ要素だった。世界中のアメリカの基地でそういう運動が起こっているわけですね、華々しく見えますけれども、実際にアメリカを敗北させたのは、これですよ。ベトナムが勝った理由はまた別に考えなければいけないけれども。

岩国の基地の中にどうも核兵器と思われるものが置かれているんじゃないか、これも随分調査したんですけれども、社会党の代議士に質問だけはしてもらいましたね。真相はわかりませんでした。

米国はあきらかにベトナムに敗れた。敗れたけれども、(ベトナムには米国に対し)謝罪させるというところまでの力はなかったんですね。それはベトナムにもなかったし、世界中にもなかったんです。非常に残念なことですね。

韓国の話から始めたんで、韓国の話をしたいと思います。
韓国は軍事国家ということもあって、徴兵忌避ということに対してすごく弾圧するんですよ。徴兵関係で獄に入っているのは世界中で韓国がいちばん多いと言われています。ところがその韓国で、徴兵忌避希望者は増えるばかり。彼らはびっくりしたことにJATECの経験を知りたがっている、学びたいと言っている。学んでるわけよ。そして実際にハンギョレ新聞とかね、民衆の立場に立つ新聞には優秀な記者がいて、そういうことを紹介するんですよね。それが今や徴兵忌避希望者が韓国のなかでグループを作ってるんですね。「戦争なき世界」というグループなんですが、呼ばれて話をしているんです。状況は少し変っているかなという(感じが)一面ではします。
今日はここで終わりにします。どうもありがとうございました。(拍手)

(司会)どうもありがとうございました。JATECの活動が過去の問題ではなくて、現在なみなみと受け継がれている。刺激を受けました。ありがとうございました。前回の和田春樹先生のお話につづいて、高橋武智さんのお話、われわれが知らなかった問題がどんどん出てきて、このプロジェクトの講演会の深まり具合が実感できたように思います。

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中山千夏さん:「さらにひどい国家 どうする?」

(司会・佐々木幹郎)それでは只今から第二部に移りたいと思います。中山千夏さんをご紹介します。
中山千夏さんは1948年7月生まれで山﨑博昭とちょっとしか違わないんですね。同い年です。私は中山千夏さんとはつきあいが続いておりますけれども、われわれの世代としたら1960代の末のころデビューしてデレビのドラマでよく観ていて、われわれが青年になったころは、「チナチスト」という言葉が生まれて、彼女のおっかけファンの男どもがたくさんいた。そういう時期がありました。2014年に『芸能人の帽子』という本を出された。最近、回顧の本をたくさん出されているんです。子役から始まってどう自分が生きてきたか、話を聞いたらとっても信じられない、古川ロッパがとにかくすごい人たちとの出逢いがあって、成長されてきた。そういう話を彼女は本にされているんですけれども、そういう話の流れのなかで2014年に出された『芸能人の帽子』というのがあります。そのなかに、チナチストブームだったころ、バリケードのなかでゲバ棒を片手に叫んでいる写真が週刊誌に載ったんです。千夏ちゃんが若い頃にやっていたそうした写真を観て、オー懐かしいと思いました。中山千夏さんは子役時代から俳優・テレビタレントを通過して歌手として活躍されました。歌もうまいんですけど、歌詞がまた上手いんですよ。あと、みなさんご存知ですけれども、参議院議員になっておられます。そういういろんな活動をしておられます。現在は作家として女性解放運動を中心としたさまざまな活躍をされています。
では、中山千夏さんをご紹介します。

(中山千夏)
こんにちは、中山千夏です。すごいミスキャストじゃないかと思うんだけれど、佐々木さんがこれの賛同人になってくれとおっしゃるから、結構かるい人間なものですから、ハイハイと言ってなっちゃって、そうしたら今度は話に来いとおっしゃるから、いえそれはハイハイと言って来たんですが、よく考えてみたら、私ほどふさわしくない人はいないんじゃないかと思うんですよ。というのは、年はたしかに一緒なんですね、山﨑君と(「君」と言っていいでしょう、同じ同級生だから)。ということは上野千鶴子さんも私と同年なんです。千鶴子さんの場合は大人になってから知ったのでね、そう変じゃないんですけど、山﨑君はほとんど関係がなかった。千鶴子さんは、私ももう運動を始めてましたからね。だからなんとなく関係あるなという感じなんだけど、山﨑君は私が運動のうの字も知らないころに、ベ平連も知らなかったんですよ、あの頃は。ちょうど亡くなったころは、19歳ですよね。そのころは東宝という会社の専属契約を打ち切って、とにかく今まで子役からの勢いでやってきたけれども、これでいいのだろうか、何か違うふうになりたいというのが、東宝を辞めるというかたちで出たんですね。で、東宝辞めたら他の舞台に出られませんから――やくざ組織みたいなところですから――、ちょうどテレビで売れ始めてましたから、いいやと。本当は舞台が大好きだったんですけど、テレビで、しようというので、テレビに飛び込むわけです。そしたらなんとテレビで大受けに受けてしまいまして、さっき言ってくれた――この頃誰も知らないから私自分で言うんですけど--チナチストっていうのがいたんですよ。このなかにも一人や二人はいるんじゃないかな、年齢からして(笑)。

三派全学連って言ってね、チナチスト、サユリスト、コマキスト。思い出して懐かしいでしょう。(笑)

そうなる前が19歳、そうなったのが、そうですね、1970年からなんですよ。そこの何年間かがね、すごく微妙な時代でね。山﨑君が死んだときは、私はなんにも知らなかった。ベ平連の話を聞いても全然わからなかった。ベ平連があることも知らなかった。後々小田さんたちと一緒に何かやるようになるとはまったく思いもしないで、へぇとか思っていただけの娘だったんです。それがテレビで「お昼のワイドショー」の司会をするようになって、そこで時代が時代ですから全学連の学生さんたちとね、ふけいっていうのが出てきて、討論するわけですよ。運動はいいとか悪いとかね。

ちょうど公害問題が盛んなときでしたから、公害問題なんかも日本テレビがそのころ扱ってました。

今から思えば唯一扱わなかったのが原発なんですね。そりゃそうですよね。おじさんがやってたわけだから。悪口言えないわけですよ。だけど原発反対運動があることも知ってくるわけです。それから大阪万博があったころなんかには、反博の運動があることも私は知るわけですよね。だんだんそうやって染まってきて、決定的だったのはお荷物小荷物※というドラマをやりましてね。

※註『お荷物小荷物』(おにもつこにもつ)は、1970年10月17日から1971年2月13日まで、朝日放送(ABC)製作でTBS系列で放送されていたドラマ

佐々木守さんというね、作家のなかでは面白いものを書くんだけど、いわば過激派のテレビ作家で、彼とすごく仲良くなって彼が書いている台本で主役をやって、大阪のABCというテレビ局、これは私が子役のときに・・・OTBの後年の会社なんですけれども山内久司さんって言ってね、そうそう必殺仕掛人を作った人なんです。その必殺仕掛人を当てる前に当てたのがお荷物小荷物という佐々木守さんの作のものだったんですが、その主演をさせてもらって、それがね、出ていった人が――ちょっと芸能界の事情を知っている人ならおおっていうような――佐藤慶さん、戸浦六宏さん、こういう人が一緒だった。で、大阪に撮りに行って、リハーサルが終わったらその晩みんなで飲むんです。ホテル缶詰ですから。そこで飲むと、佐々木さん、佐藤慶さん、そして六宏さんの政治談義が始まるわけ。それを私は横で聞いていて、わぁ面白いなぁと思って口を出したりなんかして、あれが私を随分過激にしたんですね。

60年安保のときや、山﨑君が亡くなったときにはなんにもわからなかった私も、70年安保が近づいてくると、同じ年代の学生たちがわいわいやっているのが目に入るわけです。そうすると私は、「この子たちは同じ年頃なのに、――私は大学に行っていませんから――社会のことを考えてこんなにデモをやったりなんかしている、えらいなぁ」と思ってね、このなかには前にそうだった人がいると思うんですけど、私は憧れというか尊敬の念をこんなに持ってね、それに引き換え私はチャラチャラした仕事をしていていいのだろうかと。そこで反省したのが後々の政治活動になるわけです。私が政治活動を始めたころは、あの頃の学生さんたちはどこへ行ってしまったのだろうという感じだったんですが。

いろいろ勉強し出したちょうどそのころ、70年の頭くらいですね、まぁよいことにウーマン・リブというのが来たんです。これは私はいい時代に生まれたと思いました。やっぱり自分のことじゃないとね、私の場合はですよ、今ひとつちゃんとできないというか、身が入らない。ウーマン・リブのおかげで、ウーマン・リブから入って、ウーマン・リブは自分のことですからね、それまでもなんかおかしいなおかしいなと思ってたんですよ。そうしたらウーマン・リブが始まって、ウーマン・リブの人たちの言っていることは、恐ろしげではあるけれどなんか正しそうだなと思っていたら誘われて73、74年からですかね、本格的にリブの運動を始めたんです。同年代の女の人たちと勉強をしているうちに、人権というものが私なりにわかり、差別というものが私なりにわかり、今度は他のことに目が向いていったんですね。70年代というのは、ちょうどそういう時代だったんですかね。そのころに三里塚闘争が盛んになって、運動をかじり始めていたもので、そういうところに応援に行ったりね。

さっきお話してくださった71年くらいの文芸誌に載った写真だと思うんですが、「私がなりたいもの」っていう企画があったんです。私のところに取材に来たんで「全学連」って言ったのね(会場笑)。そしたら、ああ面白いねって言って、どこでどう話をつけたものだか、日大に連れていってくれて、日大のお兄ちゃんたちは同い年くらいなのかなぁ、いるんですよね、全学連が。遠くから見てたときは親近感があったのに、すごく嫌でね、恐ろしげで。
どこの人かわからないけど、そのとき腰のところにサーベル下げて歩いてた人がいたんですよ、もちろんあの“制服”を来てね。それを貸してもらって、“制服”をつけさしてもらって、エキストラをやってくれる人もいてね、私の周りにこう立ってくれて、この写真を見るたびに、この人たちどうしてるかなぁと思うんですが、どうしてるんでしょうね、出来たら会ってみたいなと思うんだけど。写真を一緒に撮って、それで文芸誌に出たんですよ。文春の仕事だったと思います。

そのときに、私行ったのはいいんだけど、とっても邪魔しているなという気がしたの。この人たちは真面目に運動をやっているんだろうに、そこへタレントが行ってチャラチャラして、被らせてもらって写真とってウォーなんて言ってるのは、とっても後ろめたくて嫌だったの。やるんならフリじゃなくて、本当にやりたいなと思ったんですが、残念ながら私は大学に行っていないので、そういうお誘いにかかる暇もなく。

お陰様で、ウーマン・リブをやったためにいろんなことがわかって、市民運動もそのころから隆盛になってきたので、それを一生懸命やっているうちに、間違って国会に出てしまったんです。これは本当に間違っててですね。今になって私が自分なりに反省すると、選挙のあとというもの、議員になるなどという活動は、良い意味でも悪い意味でも「俺が(私が)やるんだ、絶対やるんだ」という人が立ってやらないと駄目ですよ。私はね、スターだったでしょ、悪いことに。だからどこかに「みんなが言うんだからやってやるか」みたいなところがあったわけ。あの鳥越(俊太郎)って人も一緒ですよ(会場笑)。あんなもの駄目です、全然。だから、打たれ弱い。私はもう犠牲になって行っている気になってるからね、変な政局なんかくると、もう嫌なんですよ。

それからもう一つは「俺が(私が)やってやる」という人は、いい意味でも悪い意味でも、清濁併せ呑むわけですよ。だけど私はもうそれは嫌だからね、「濁併せ呑」めない。抱き合わせ法案の採決なんか来ると、どうしていいかわかんなくなっちゃう。そういうものは、向いていないですから、それはやってみてわかったんですね。なんでもやってみなければわからない、結婚でもなんでも。やってみてやっと分かって、私はつくづく政治家には向いていないと思って、(選挙に)落っこちてから、また市民運動に戻りました。それで今日まで来たんですが、山﨑君のことを考えるために、同い年なんだけれども、随分違う歩み方をしてきたなと思います。それなりに、違う歩み方をしてきたなりに、山﨑君とあの時代に会ってね、いくら同じ歳だからといって話をしてもね、全然合わなかったと思うんですよ。あちらはいろいろ勉強してね、いい学校行って政治のことなんかもとっても勉強していらしたから、合わなかっただろうと思います。その後も私は専門に政治や社会のことをなにひとつ勉強しないで、ウーマン・リブだってね、女が威張ってて何が悪いっていう程度のものですからね、私のは(笑)。お千鶴(上野千鶴子)さんみたいに、タタタタッと東大に来た学生を感心させるなんてことは言うことも何もできないわけですから。そういうなかでも、やってきて思ったことがあるんですよ。いろいろ固まってきたの。

もうひとつ言うと、昔会った方がさっき「千夏ちゃんに会えて嬉しいよ、僕らの仲間は随分たくさん変節してしまったけど、千夏ちゃんは変節してないものね」って言ってくださったのね。本当にそうなの。全然変節してないの。ウーマン・リブをやったときには180度変ったんです、人生が。その180度変ったまま、来てるんですね、こんにちまで。振り返ってみると、全然変ってないんです。それがどういうふうに深まっていったかという話を今日はちょっとしてみようかなと思うんです。

じつは「第5回東京講演会 羽田闘争とベトナム反戦から考える ――この国家どうする――」という題ですけれども、私のは「さらにひどい国家 どうする?」という題なんですね。「この国家どうする」といったら国家をどうにかしたいという感じがするでしょ。私は全然どうもしたくないの、国家を。国家に関係したくないです、全然。ということが私のなかで深まって来たんです。それが、政治的にどういうふうにいうのか、私はどういう位置なのか、――よくノンポリとかそういうこと言いますよね――私には全然わかりません。国会にいて国会のなかで活動しているときは共産党の人と非常に仲がよかったんですが、選挙になると非常に仲が悪くなるんですね。それで共産党の方から「トロツキスト」って言われたんです(笑)。私思ったんですけど、この人たち人の悪口を言うのに、言われたほうがわからない悪口の言い方っていうのは言ったってしようがないんじゃないかな、と思いました(会場笑)。そういうふうに外から言われて、あ、そうなのという感じしかずっとなくてですね。だから自分のやってることや考えてることにもどういう名前をつけたらいいかよくわからないんですが、ずっと運動をやってきて思うのは、――最近とみにそう思うんですが――世の中、社会を見るときに、どうもふたつ立場があるみたいなんですよ。どういう立場かというと、ひとつは、個人として見るという立場。もうひとつは、国家から見るという立場。個人として見ると言ったときには人間という言葉がすぐ頭に浮かぶんですね。だけど国家という立場でしゃべっている人たちにとってはどうも人類なんですね。それから個人としての立場から考えているときは、自然とかね、生命とかいうものがずっとオモテに出てきます。だけど国家という立場で考えてる人たちは、科学というのが出てくるんですね、すぐに。私はどうしてもそっちの方が嫌なわけ。国家の側から見て考えるのが。というのは、すごく簡単な理由はね、――さっきから言っていますが、私は特に勉強したわけじゃないですからね――個人の立場から考えることはいくらでも出来るわけなんです。これは誰にでも出来ると思うんですね。とくに作家になろうとかそういう考えさえなかったら、人間のことなんて自分が人間なんだから考えられるじゃないですか。ところが国家という視点から考えるとなると、いろんな特別な知識とか情報とかがいるわけ、統計とかね。そういうのを駆使してしゃべってる人たちのほうが世の中には多くて。その人たちの出身を見てみると、元官僚とかね、元閣僚とか、あるいはジャーナリストとかね。そういう人たちは特別な知識とか情報とかを握ってますでしょ。だからその人たちがしゃべる話というのは、そういう特別な知識とか情報がないと言えないことなんですね。私たちは勉強をしていないし、特別な情報とか勉強とか手に入りませんから、そうなると、ああそうですかと言うしかないですよね。国家の立場からモノを言う人に対しては。だから嫌いなんです、国家の立場からモノを言う人は。

私はやっぱり個人の立場からモノを言い、個人の立場から考える。振り返ってみると、私より武智(高橋武智)さんみたいにうんと知識があっていろんな技術もあって、いろんな運動のしかたも知っている人たちと一緒に運動してきました。してきましたけど、その人たちは私にわかるように言ってくれるわけですよね、言いたいときには。久野収さんから羽仁五郎さんから沢山の学者さんと一緒にいろんなことをやってきました。そのときは、はぁと聞いていたんですが、あとから考えると学費も払わないで素晴らしい学者たちと付き合ってこられたのは運動のおかげだなと思うわけです。その人たちは、みんな私達に分かるように自分たちのほうから降りてきて話をしてくれる。私達は威張って聞いていればいいんです。これはどうなの、おかしいじゃない、とか言ってね。それが個人の立場に立った物の考え方だと思うんですよ。私達の場合は自然でいいわけですね、何も知らないしね。だけど勉学のある人とか、いろいろ情報を握っている人は、私達と付き合うのは難しい。その付き合うのが難しいところを曲げて付き合ってくれないと、その人は駄目な人なんです。そういう駄目な人が政治論をぶってる世の中だと思います、今は。気持ち悪くなっちゃうんです、私。原発やらないと国はどうでああでってね、どうでもいいじゃない。原発になって癌になるの嫌だものと思うんです、私はね。

もうひとつ大事なことは、国家(の立場)で考えていくと必ず戦争というところに行き当たるんです。最近、「スーダンになぜ行かなければならないか」を国の付き合いから説いた論文を読んで私気持ち悪くなっちゃったんですけどね。そんなのどうでもいいと思います、私は。行かなきゃいいんですよ、何が何でも。死にに行くんですから。絶対に男をあれにやっちゃあいけない。自分の愛する男はね。愛さないやつはやればいいけどね(笑)。

そういう立場から物事を考えていかないと、私達ふつうの者は政治をやれない。市民の政治っていうのかな、市民運動っていうのは、そういうものだと思います。今時の運動を見ていても市民運動というのが大変力をもって来ましたよね。大きな割合を占めるようになってきた。そのときに、今度は市民を分断しようってのが出てくるね。私びっくりしたんだけど、ネットでね、「沖縄に来ているのはプロ市民だ」って書いてあるの(笑)。プロ市民ってなんだろうと思ってね。昔プロレタリアートって言葉は聞いたことがあるけど、どうもあれとは関係なさそうで(笑)。プロフェッショナルのほうらしいんですよね。プロフェッショナルな市民とアマチュアな市民っているのかなと思って。そういうふうにちょっと皮肉に考えたんですが、彼らがネットで、れっきとした出版社の本も書いているし、・・・みたいなブログの人も書いているけれども、彼らの言わんとするところを一生懸命汲み取ると、プロ市民というのは結局、あっちこっちに行って熱心にやたらに市民運動をしている市民のことなんですよ。熱心にやろうがぐうたらにやろうが、市民運動は市民運動なわけでしょ。熱心だろうが熱心でなかろうが共産党員、というのと一緒でね。共産党員だったら共産党員。市民運動だったら市民運動なんですよ。それなのに彼らが分断するっていうのは、やっぱり市民運動と言いながら動き回る人が増えている。これね、われわれ団塊の世代のせいだと思うんですよ。暇でしょ。だから市民運動やろうって人が、私の周りにもいっぱいいるの。すごい熱心なの。すごい勢いでね、今日は反原発、今日は反戦、あっちこっち行って、今日は国会の前、今日は福島って、ものすごい勢いで走り回ってるんですよ。それはね、本職がないから出来るのね。それをプロ市民と言っているんでしょうけれども、言うなら言えと。熱心にやろうがぐうたらにやろうが、市民は市民じゃないですか。だけど、そうやって市民も分断して、沖縄の警察官がニコニコしながら市民をぶん殴ったりね、市民を吊るしたりするんだな。あれ、市民だと思ったらやりにくいですよね。プロ市民だと思ったらね、このプロ市民め!ってやれるわけでしょ。だから、そうやって分断をして、運動の弱体化をはかるんだなと思ったときにすぐに、私達の若い頃の学生運動とか思い出しました。分断されちゃうんですよね。三里塚の闘争でもそれがすごくって、三里塚に応援に行って一生懸命やっているのは地元の人たちじゃなくて外の人たちだ、そこには全学連とか、ナントカカントカ派が入っているんだというようなことを盛んに言って、私達ふつうの市民がひけちゃうような感じを持ったんですよ。でも、私はそのときも「なにを言いたいんだ」と思ったんですね。三里塚なんてそんなに人がいるわけないじゃないですか。だから運動が大きくなれば、よその人がたくさん来るに決まってる。これが正しいと思ったら外から駆けつけて応援するのは当たり前じゃないですか。もちろん私は、地元の人、当事者の意向を無視してやるのは反対なんです。なぜかって言うと、私、女性解放運動をやっていていちばん頭にきたのは、モノを知っているような男の人が私達のところへ来て「君たちこういうやりかたしていちゃ駄目だよ、もっとこうやりな」って言うのよ。私はアンタを倒すためにやってんだよ、みたいな話でね(笑)。やっぱり当事者がいちばん主導権を持たないといけないと私は思うんです。ですから沖縄にしても、もう終わっちゃったのかな、今でも三里塚で働いている人たちいますけど、そこへ行って加勢をするのは、これは一心太助と同じでね、いいんですよ、加勢して。だけど当事者たちの意向というものをとても大事にしながらやらなくちゃいけないんだなみたいなことを考えました。
ここに座っていらっしゃる、多くの方が良く知っているガチャ子ちゃんというあだ名の彼女とは、運動をしている時にガサ入れをされたというので知り合ったんです。さきほど、偽造パスポートの話が出ましたけれども、私なんて善良な市民ですからね、偽造パスポートとかガサ入れとか聞くとビビっちゃうわけですよ。昔はもっとビビってた。警察が来るっていうのは(その程度の人間、その程度のルーツを持っていた人間だったってわかって頂きたいんですが)なんか悪いことをしたんだろうっていう育ちをしてきたわけです。ずっとそう思ってたわけ。ところが死刑廃止運動を始めて、私と死刑廃止運動やっているただのおばちゃん、こんな人が危険なわけないじゃないっていうおばちゃんのところに(反体制運動とくくりつけて)ガサ入れが来て、私は初めて「警察っていうのは悪いことしなくてもこうやって来るんだ」というふうに目覚めたわけです。だから、これからなら、偽造パスポートぐらいはつくれるかも知れません(笑)。昔はそんな反社会的なことは・・という感覚だったんです。でも、そういう経験をいろいろ自分自身で積んできて、私は今後も一人の市民としてしっかり立って市民運動をしていこうと思っています。

私が理解している市民運動というのは、団体の力というものをたのまずに――この辺は全共闘・全学連のみなさんとは違ってくるところかなと思うんですけど――団体の力は、まずはたのまずに、自分自身で個人個人が自分の判断で、自分が関心を持つことがら、あるいは自分がおかしいと思う社会的なことがらの解決に、――ここでまたいろんな運動と合うかも知れないんだけど――誘い合ってやっていくこと、解決に向っていくことだと思っているんです。

だから永続的な団体とか、永続的な結び合いとかいうものを目指しませんから、その時々で離散するわけですね。で、すぐ変っちゃう。これは私の性格かも知れませんけどね、すぐ離婚したりするから(笑)。なんていうんでしょう、固い組織じゃなくて、人間のつながりのなかで出来ている組織、組織というかつながり、お友達ですね。友達関係をしっかり確立していって、そのなかで、互いに自分が今興味を持っていること大事だと思っている問題に関心を持って解決しようとかかっていくことだと思うんですね。

今の市民運動を見てると、まさにそうなんです。今私が言ったようなことでみんな集まって国会前にいたりするんです。それは一見、力がないように見えるかも知れないけれども、じつはそれだけ民主主義的な、普通の人、アマチュア市民が育ってきて、そうね、プロ市民になっていると言ってもいいわね。プロ市民になりつつあるのだと、民主主義のプロになりつつあるのだということだと思うんです。でも限界はありますから、普通の人はそんなに運動に時間を割けません。自分の生活があります。自分でやりたい目標もあります。そういうものを排除しないで、いい加減にやっている者も一緒になって、やっていって頂きたいなと思います。
というようなところで時間が来たようなので、ありがとうございました、すみません、変な話で。(拍手)

(司会)
どうもありがとうございました。さすがすごいですね、時間ピタっと合わせてきますね。中山千夏さんとおつき合いをしていて、彼女といろんな問題でぶつかって論争したりすることがあるんですが、必ず私負けます。圧倒的に論争が上手いですね。3・11の後に彼女が言った名言がありまして、――即座に彼女言ったんじゃなかったかな――、「たかだか湯を沸かすのに原発なんか使うな」って言ったんですね。福島原発の事故があったときに、ああいうシンプルな発想で、原発の馬鹿げたあり方をするどい言葉で・・・さすが千夏ちゃんだなと思いました。彼女自身の言葉、個人の言葉を通じて社会的な問題に手を差し伸べていくという、このことがとても大事なことだと思いますし、もともと全共闘運動というものも、そういうものであったと、今、聞いていて思いました。どうも、中山さんありがとうございました。



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