自ら痛みをもった抵抗としての暴力ーー10・8羽田の実力闘争から考える/三村洋明
自ら痛みをもった抵抗としての暴力――10・8羽田の実力闘争から考える
たわしの読書メモ・・ブログ416
三村洋明
たわしの「対話を求めて」ブログから転載
http://hiroads.seesaa.net/article/455500871.html
ブログ414の『情況』で10・8羽田闘争50周年特集を組んでいた中で、紹介されていた本です。
まさに、大きな転換点としてあった「10・8」で、その体験をしたもの、同時代的に、また時代が少しズレても、その影響を受けたものが、「お前は何をしてきたのか」「これからどうするのか」という問いかけの中で生きてきたことをいろんな立場から書き綴っています。そして、山﨑さん死亡が、どう見ても、警察官による警棒での撲殺事件としかとらえられないのに、学生側が装甲車を奪い轢死させたというデマを捏造し、マスコミを使ってキャンペーンを流したということをこの本の中で明らかにしようとしています。丁度60年安保の時に樺美智子さんの警察官による虐殺をデモの中での圧死とキャンペーンをはったように。
このデモは佐藤首相がアメリカのベトナム戦争への加担の更なる進行として、南ベトナム訪問をしようとすることへの阻止闘争と組まれたもので、60年安保闘争以降、デモがサンドイッチでデモ(サンドイッチは中身が見える、中身が見えないあんパンだというような表記もでています)状態で、抑圧されていくような中で、実力闘争としてヘルメットをかぶり角材を使って機動隊の壁を突破しようとした実力闘争の走りでした。まだ、ヘルメットをかぶったひとの方が圧倒的に少なかったようなのですが。
これから、機動隊の壁を突破する実力闘争が組まれていきます。ベトナムでは戦争でひとが殺され(当時はジャーナリストたちによる報道の自由がまだましで、映像がいろんな形で出ていました)、それにいろんな形で日本政府、日本の企業が関わっている、それを止めるためには、その暴力の行使の極である戦争への加担を止めるためには暴力も辞さないという闘いだったのです。そして、それは被害者としての運動だけでなく、むしろ自らの加害者性ということをとらえ返した、その加害者の立場を否定する運動にもなった、そういう運動として定立させたという転換点でもあったのです。その思想性は全共闘の「自己否定の論理」にもつながっていきます。そのあたりの加害者性をとらえられないところで、「城内平和」というエゴイズム的なところで切り捨てる、もしくは口だけの連帯を語るのではない、そういう運動としてこの闘いは取り組まれたのだとわたしは押さえています。
わたしは遅れてきた全共闘世代で、「10・8」はノンポリ(政治的意識が希薄)だった高三の時、新聞で見てその内容もよくつかんでいませんでした。その後の、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争は、わたしの育ったところで起きたこと、まさにそのときの市民的関心が強く、そのときの時代精神というものを体験しています。駅前でカンパを集めたら、一万円札がポンポン入ったとか、高校で「デモには行かないように、もし無断で休んだら処分の対象になります」とかおふれが出て、それでも休んでデモを見に行った同級生が、昼休みに学校に来て報告をして、また見に行くとか出て行ったり、という話もありました。反共だったわたしの父が、高台の自宅から双眼鏡を持ち出して、三派全学連と機動隊の橋の攻防を見ていたり、橋のところまで見に行ったりして、機動隊の打ち込んだ催涙弾が市民病院に流れ込んだりして、市民が機動隊に抗議していたとか言って、「機動隊はひどい」とか言ってたりしていました。そのような市民の支持や共感の話はこの本の中にも出てきます。
その時代精神のようなことが、今、「非暴力直接行動」の時代として、ほとんどとらえられていません (註1) 。「非暴力直接行動」ということば自体があいまいです。「直接行動」ということは、議会を通じた働きかけでない、直接の示威行動を指すのでしょうが、問題は実力闘争として展開するかどうかです。非暴力直接行動というとき、その言葉を使うひとの中には、実力闘争を組むと運動が潰されるから、実力闘争を組まないというイメージがあるようです。実力闘争には踏み込まないという事の中には、60年代後半から70年代に至る武闘的闘いの敗北のとらえ返しや、台湾や香港での実力闘争の敗北をとらえ返してというような発言も出ています (註2) 。沖縄の基地反対闘争では座り込みの実力闘争が行われています。戦争法反対でも横浜の公聴会の場で座り込みがありました。脱原発・反原発でも大飯原発再稼働のときには現地で実力闘争を組んだという話があります(註3)。また反ヘイトでもデモを阻止すると座り込んだりします。非暴力実力闘争として、現在も闘われています。
そこでの混乱は非暴力という方法論的問題と、非暴力主義ということの区別がついていないということです。
非暴力主義は宗教性を帯びた思想的非暴力主義を指すようです。それは旧約聖書の中の「右の頬を打たれれば左の頬を差し出せ」ということや、ガンジー的非暴力主義です(註4)。それは個人の思想信条の問題として、自分は決して暴力を振るわない、それで自分が殴られても決して手を出さないというのは、そのひとの個人的思想信条の問題です。ですが、自分の仲間が殴られていて、殺されるようなときに、黙ってみている、ただ止めろと叫ぶだけというようになるのでしょうか?
運動が怖いととらえられないように、非暴力の運動として運動を広げるために非暴力という方法をとるというのを方法論的非暴力主義と名付けられるのではないかと思っています(註5)。
そもそもわたしたちの時代精神として、権力への抵抗から発する暴力への忌避感は余りなかったと思います。南ベトナム解放民族戦線の戦いをどうとらえるのかということで、そもそもその当時は米軍の非道さがきちんと報道されていたので、侵略的な戦争に対する闘いを非難するということは少なく、むしろ支持するという発信もなされていたのですから、(もちろん、その勢力が政権をとったらどうなるのかというところの路線の問題まで支持してはいなかったのですが)、そもそも非暴力主義ではなかったのです。その後権力マスコミ一体になった自分たちの暴力性をたなにあげた反暴力キャンペーンと、「内ゲバ」とその報道の中で、非暴力主義ということが形成されたのだと思います。
そのあたりは、暴力を巡る、というよりそもそも総体的な運動の総括のようなことがきちんとなされないまま、運動がぽしゃっていくことがあります。この本を読みながら、改めていろいろな立場からの自らの運動の総括を進める必要を感じ、それをまとめる形での運動総体の総括の必要性を感じています。
さて、この本の中でも何回か出てくることがあります―それは全学連書記長であった、解放派の高橋さんを中核派が自己批判を求めてテロったというはなしです。その前に解放派の中核派へのゲバルトということもあったようなのですが、そのあたりの事実経過も含めてきちんとした総括が必要です。これが、「内ゲバ」の走りのようなこと、ブント内のテロも起きています(何が内か外かということも押さえる必要があるのですが)。このあたり「セクト主義」とか「組織の物神化」という中身なのですが、このあたりのこともきちんとした総括が必要になっているのだと思います。
誤解のないようにもう少しきちんと書いておきます。わたしは根源的非暴力主義―反暴力主義の立場です。すべての暴力に根源的に反対です。ですが、既に暴力が存在しているときに、この社会が差別という暴力でなりたち、現実に暴力が満ち満ちているときに、「すべての暴力に反対です」と、客観主義的に言ってられるのかという問題があります。もちろん、反差別という立場は、自分は差別されるのはいやだけど、差別するのはいいということではないわけで、自分の意見を力で相手に押しつけるというようなこと(これも暴力です)には根源的に反対するのですが、そもそも今の政治は、権力が権力意思を民衆に押しつけてきているわけです。それをはねのける、押し返すのが反暴力主義なわけです。無抵抗でいることは、暴力を容認することになります。もし、問題がそのことだけの問題であり、自分だけの問題ならば、そして宗教的非暴力主義ならば、非暴力主義を貫けるのかもしれませんが、そのような問題でないところで、非暴力主義の立場にたちえません。もちろん、安易な暴力など容認できないし、自ら痛みをもった抵抗としての暴力、暴力を否定するが故の暴力の行使ということになるのだと思います。
こんなことを、この本を読みながら考えていました。
さて、シールズや反原連のことについて、いろいろコメントしていますが、あえてコメントしているのですが、そもそも過去の世代からするとどうも分からない運動になっているということは、わたしたちや過去の世代が、きちんと運動の総括をなしえないで、伝えきれない中で、切断されているというところで起きている問題なのです。総括は、まず自己総括からということで、その総括ということも含めて、この本もそのような意味をもっていることとして、この本があり、その本を巡る対話、わたしの文もあるのだと思います。他のところでの対話や文を書く行為自体が、わたし自身の総括、そしてわたしたちの世代の共同の総括、そして通時的な総括の座標になるのだと思います。
註1
ブログ329・討議-小熊英二×ミサオ・レッドウルフ×奥田愛基「<官邸前>から<国会前>へ」(『現代思想 2016年3月号 特集=3・11以後の社会運動』青土社2016 所収)で、小熊さんは、2015年戦争法反対の運動と60年代後半から70年代の運動を比較して、後者はマイノリティだったから過激化した、という主旨のことを書いているのですが、後者の方が、社会的関心も高く、そして支持もあったのではないかと思います。時代精神を読み違えています。きちんと、その時代をとらえ返す資料が少ない中で、インタビューもしないで本を書いているから、そんな錯誤の文になってしまうのだと思います。そういう意味で、この本の出版の意味が大きいのだと思います。
註2
これは、誰の発言かどこかで見たのですが、文献をさがせません。わたしはそもそも運動というのはほとんど敗北に終わるものだと押さえています。その敗北の中で、何を勝ち取っていくのかということが問題なのだと思います。たとえば、樺美智子さんの死は死を許してしまった、しかも偽りのキャンペーンに屈してしまった(そちらの方が流布した)というひとつの敗北ですが、それでも彼女は実力闘争を組む運動の中で生き続けています。今、実力闘争自体を忌避するようになっていくとき、そのことが危うくなっていくのですが。
台湾、香港の運動の敗北とか、簡単に言うけれど、わたしはその運動の中で獲得されたものが、将来の運動の中で生きていくとしたら、単なる敗北でもありません。何をもって敗北と言っているのか分からないのです。
ブログ356・SEALDs×上野千鶴子「上野千鶴子(社会学者)×福田和香子、奥田愛基、牛田悦正(SEALDs)対話」(atプラスweb)2016で、上野千鶴子さんは実力闘争をすれば潰されるとか、いうようなニュアンスの発言を繰り返しています。実力闘争をしたから、潰されたのではないのです。それに繰り返しますが、確かにほとんどの闘いは敗北に終わります。そもそも、その中で次の闘いを準備して、飛躍させていくのです。その回路をもった闘いが必要なのです。
註3
ブログ412野間易通『金曜官邸前抗議 ――デモの声が政治を変える』河出書房新社 2012で、野間さんは大飯原発再稼働反対の運動に関して、地域では現実的被害がはっきり分かるから実力闘争を組める、けど東京では実力闘争は組めないとかいうことを書いているのですが、それは想像の欠如のようなことではないかと思うのです。原発事故はもう起きたのです。もう一度起きる、そのことがどう自らに影響を及ぼすのかを想像できないのでしょうか? もっと言えば現実に被害にあったひとたちの痛みを、自らの痛みとして共有化できないのでしょうか? 確かに温度差があるにせよ、民衆の怒りのようなことで、決壊を起こしたというのは、ひとつの実力闘争ではなかったのでしょうか?
註4
ガンジー的非暴力主義を、野間さんは、屍越える運動としてとらえて、自分はそのようなところには組しないようなニュアンスの文を書いています。ちなみに、野間さんは警察はほんとの敵でない、として警察を柵にみたて、鉄柵の隙間からつぶてを投げるというようなことを書いています。つぶてを投げるというのだから、非暴力主義者ではないようなのです。鉄柵の例はわかりやすいので、わたしも援用しますが(もちろん警察官といえどもひとは鉄柵というものではないということは押さえた上で)、10・8以降の実力闘争は鉄柵をなぎ倒して敵に迫る闘争だったのだと思います。鉄柵を潰すということは目的ではないし、そんなことをしても意味がありません。ただ、そこに鉄柵があり、敵に迫るのを妨げるから、なぎ倒す、押し込むということをやるのだと思います。2015年国会前で起きていた鉄柵を巡る攻防や決壊もそのようなこととしてあったのだと思うのです。今日の実力闘争をも端から否定した主催者はそのあたりのことどうとらえていたのでしょう―実力闘争をしないという堅い決意をもって忌まわしくとらえていたのでしょうか? 上野千鶴子さんが「国会に突入していたら運動はつぶされていた」というような発言をしています。60年安保のときの樺美智子さんの死をどうとらえているのか、よく分かりません。わたしは彼女の死は、60年代以降の運動の中に引き継がれたのだと思います。
もうひとつ書いておけば、そもそもガンジー的非暴力主義は、インド独立闘争を闘ったガンジーが、カースト制度を撤廃するためにはむしろイギリス支配の方が良いというアウト・カーストのひとたちの主張に対して、ハンストをもって独立運動の統一を図り、結果としてカースト制度という差別制度を残すことになった。そこにおいて、ガンジーの非暴力主義は差別という暴力を残すという意味で非暴力主義になっていないという批判も出ています。
註5
方法論的非暴力行動というのは、戦術的非暴力行動という言い方をされていました。軍事用語的になるので、反戦-反軍の立場としては、方法論的非暴力というあまり聞き慣れないことばを使っていきます。
2017年12月12日
(みむら・ひろあき)
※見出しは勝手ながら当プロジェクト事務局が付けました。